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レビュー後半です。
前半はここ。 (後日記を書きました。090511) ここではこの本を読んで反応した僕自身の考えと、建築と都市に対する立ち位置を少し考えてみました。なので完全に「僕は、僕は、」と言う文章にしてみました。議論に参加すると言うことは、当然ながら僕自身も批評の対象になるのだということを自覚したいと思っています。 まずこの本が話題にしている1995年は僕が10歳の時である。長崎県の諫早という、地方の小規模郊外都市に隣接する農村に暮らしていた。この年は阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった年であるというように、本書でも述べられている。両方とも僕の人生に対して甚大な影響を及ぼした出来事ではない(と僕は思う)。けれども例えば、阪神大震災の起こった日、僕は風邪をひいて学校を休み、家に一人でいた記憶がある。暇なのでテレビをつけるのだが、どのチャンネルも震災のニュースで、ずっと瓦礫の映像がひたすらエンドレスの映像として流れていた。神戸に親戚がいるのだが、その親戚からは家も家族も無事だという連絡を受けて安心してからは、不謹慎ながら何の感動もなくその映像を見ていた記憶がある。一方、地下鉄サリン事件であるが、これは東京で起こった。東京に知り合いはいなかったから、これは始めから“他人事”としてニュースを眺めてたのだが、後日、隣の家のおじちゃんから、「サリン事件が起こった日にちょうど東京に出張に出かけており、事件の起こった地下鉄の一本前の便に乗っていて、一歩間違えば被害者になっていた」という逸話を聞き、急に事件が身近に感じられ、怖くなったという記憶がある。これらの事件で僕は、現実の出来事に対する自分自身の中でのリアルな態度とノンリアルな態度の出現というものを自覚的に経験した。以降僕はある意味で自分が功利主義的であることを(そんな言葉知らなかったけれども)自覚してきた。自分は自分に関わりのある(であろう)ことにのみリアルな態度をとるのだろうと思い、行動してきた。だから例えば地震の時にボランティアに自ら動員されていたたくさんの人間の思考が理解できなかったりした。だがそういう思考が逆に、「自分は社会のどの部分まで影響し影響されているのだろう」、更に転じて、「社会とは何がどのようにどこまで影響し合っているのだろう」という興味に繋がっていったのだと思う。 まず、僕にとっての1995年とは、現在までの自分の社会に対する態度の起点であったことを仮定できると思う。つまり僕にもこの議論に参加する価値と資格が存在するという主張である。 また、僕はあまり詳しくないのだが、社会学的にも1995年は現在を考える上でのキーとなる年号らしく、それは様々な社会的コンテクストがこの年を起点にパラダイムの変化を起こし現在に繋がっているということが、まことしやかに指摘されているからである。これらのパラダイムによって引き起こされた社会、特に都市や建築の状況というものを藤村さんは問題としているようである。 僕はニュータウンなどのいわゆる郊外と呼ばれる場所に暮らした経験はない(厳密にいえば1年程度ある)が、近接する市街地の幹線道路沿いでローサイド商業施設などがボンボン建設され、中心部の商店街があれよあれよと衰退していく様を見てきた体験はある。だから“郊外”というキーワードを聞いた時に、住環境としての“郊外”にはリアリティがないのだが、見えざる力としての“郊外化”には多少リアリティがある。また、地方の郊外と東京の郊外で、住環境の意味合いが変わってくると思うのだが、東京の郊外とは例えば『クレヨンしんちゃん』の春日部(埼玉だけど)のような場所を想像すれば良いのだろうか。それとも大友克洋の『童夢』に登場するような大規模団地のような場所なのか。おそらく両方ともそうなのであろうが、藤村さんが言う「郊外には場所性がない」というように、ないものを想像するのはなかなか難しいものであるが、漫画の世界で想像するとなんとなく感覚がわからないでもない気がする。(それは完全に漫画という他者のイメージから引き受けたものだが。) 長くなったけど、ここまでが僕が“1995年以降”と“郊外”を考える上での前提条件です。 そういう前提で僕がこの本を読んで最も共感したのは、何人かが話していた、“郊外化”を加速させる「見えざる力」あるいは「深層」といったものにどう切り込んでいくか、あるいはどう関わっていくかというスタンスです。僕は“郊外化”というものに対して特にNOは言わないという立場で、なぜならソフトの視点からトータルで見た時に幸せ(のようなもの)を享受している人間の割合が高い場合が多いという気がするからです。そしてなにより、“見えない力”というものに可能性があると思っているからです。 ちなみに、僕が建築に対して期待しているのは、建築が周辺環境と人間とのインターフェイスとして機能するということです。建築によって人間と周辺環境が関連性を持つことが素晴らしいのではないかと考えるからです。というのは、僕自身の前提条件に関わるかもしれませんが、人間は自分と自分以外の“何か”との関係性を認識することでその“何か”の意味や価値を見出すと考えているからです。建築が周辺環境のインターフェイスになることは、同時に周辺環境が建築のインターフェイスになるはずです。こういった建築が増えることで人間がリアルな態度で接する、接しようと思う環境が増すことを期待しています。具体的な方法はまだまだ模索中なので完全に理想論にしか過ぎませんが…。 この本を読んで気付いたのは、藤村さんの言う「場所性」という言葉はなかなか便利なようで、考えてみると僕の建築に対するモチベーションも「場所性」の議論のうちに取り込まれるように感じました。 なので僕の建築の目標も「建築によって場所性を得ること」であると、ここではしたいと思います。「郊外化によって場所性が喪失した」というリアルな問題意識はないので「場所性を取り戻す」と言うのには抵抗がありますが。 話を戻すけど、“見えない力”に興味があるのは、それが大きな力である(と思う)からです。僕は建築が周辺環境の真のインターフェイスになるためには、結局建築とそれに関わるインフラについて考えなければいけないと思っているのですが、インフラを扱うとなると何か大きな力が必要であると思うわけです。それをうまく使いこなしたい。勝矢さんは「表層を肥大化することで深層を浸食したい」と言っていましたが僕は「ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい」笑。“見えない力”をその気にさせるストーリー(市場主義原理と相反せず、さらに魅力的な価値を秘めているもの。松川昌平さんの言う動力になり得るもの。)というものを提案することで、“見えない力”を取り込みながら、建築を作っていけたらいいと考えています。 その他に僕が特に興味深く読んだのは、 長坂常さんと藤原徹平さんのインタビューで、彼らのお金と人間に対する現実的且つ理想的な考え方は、どちらの考え方も新鮮で共感できました。 それと、観念的なレベルで共感するのは永山祐子さんの、「自分はここにいる」という感覚を得たいということ。若干女子学生的な感覚な気もするけど。 あと、田中浩也さんとドミニク・チェンさんのコンピュータによる新しいテクノロジーの可能性で、僕は今までそういうのをわからないなと思って敬遠してたんだけど、実は、建築ができる以上に身体に関わることができるテクノロジーなのかもしれない。というところを垣間見ることができて楽しかった。 インタビューではインタビューイの主張に対して必ず「なぜ」の質問と回答がついて回るので、読者である自分が考えることと彼らの主張の真意とを相対化することが可能になっている。一人の作家像にとまでは行かないまでも、1つ1つの考え方として共感できるものが度々出てくるのが単純に楽しいし嬉しいし、それ故に思考を進めるモチベーションになる。 この本を読んで、自分の思考がほんの少し明確になったようで嬉しい。 とりあえず、以上にしておきます。 (後日記を書きました。090511) author:松本剛志
by matsumo5402
| 2009-03-02 01:09
| 晴れ
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