松本剛志の考えること
by matsumo5402
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将来、公園に近い家に住んで花を育てたいなという写真。

うそ
# by matsumo5402 | 2009-10-16 01:17 | 晴れ
白水ダム
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うわさの白水ダム
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左右で端部の処理が全く違う。(地形に合わせて??)曲面の精度が高い。こうやって写真で見ると思ってた以上にこじんまりしてる。
特に上下左右の端部における水の流れが不思議でずっと見てて飽きんの。美しいインフラがあってそれによる水の自動記述?自動演奏?がひたすら行なわれてるのね。人間の生活空間ではそういうのは抽象的でユートピアでって言うわけだけど、なんか血の通ってない虚構の美なんだと言うわけで、おそらくそれはそのとおりなんだけど、結局土台のところで人間生活を支えてるのはこういう完全無欠に限りなく近い土木装置だったりするんだなー。とかね。
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車を止めてからすぐのコースとメチャメチャ歩くコースがある。今回は偶然駐車場が目の前コースで来れた。前回はメチャメチャ歩くコースだった。メチャメチャ歩くコースに辿り着いてしまった方は、グリコ、チヨコレイト、パイナツプルのあのゲームをするのがオススメです。トイレは近くにない(はず)なので、気をつけましょう。
# by matsumo5402 | 2009-10-12 23:00 | 晴れ
マジどうでもいいこと
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時と場合によるけれども、基本的に護岸とかそれ系の表情が好き。という
# by matsumo5402 | 2009-10-11 22:41 | 晴れ
自分会議
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これを読む人が注意すべきことは、この文章の仮想敵は筆者である僕自身であって、一般的な何かを批判するものではないということです。


建築を考えてきた僕の短い人生の中で、「建築は、人間とその周辺にある環境との関係を調整するようであるべき」つまり「インターフェイスとしての建築」というのが一つの辿り着いた、というか無理矢理こねくりあげた末の答えだったのだけど、最近は少し違うように思えている。(ちなみに、ここでいう建築は実体としての“建築物”のことであって、“建築的思考”とは明確に区別しておきたい。)

建築が、調整するのか???

僕は最近、むしろ人間が建築とその周辺にある環境との関係を調整する事の方が無限の可能性を有しているような気がしている。

と、いうのは、建築が直接的なインターフェイス装置(エアコンとか防音装置とか映像スクリーン)のように存在することは、とても魅力的に思うのだけど、建築が人間に媚びへつらって、人間のご機嫌取りをする存在であろうとすればするほど、建築の存在意義が逆説的に薄れていくような気がする。そういう意味で、僕の言う「インターフェイスとしての建築」というキャッチフレーズは、あまりにも捻りがないせいで、それが字義通りに扱われた時に悲惨な結末に辿り着きそうな気がしている。僕らは今、一つの建築にではなく都市全体に住んでいて、建築は都市の中のエアコン的存在、あるいは映像スクリーン的存在になっているというのは、とても確かな実感である。でも、そういう社会構造だからこそ、あるいは社会性だからこそ、そこで建築がただ単一のインターフェイス性しか有せないようであれば、それこそ僕らの社会は、そして社会を構成する諸要素は、ことごとく多様な意味を失い続け、ついには字義通りの原理的な、動くブリキ人形的な、あるいはその歯車的存在以上の何物でもなくなると思う。(そして建築が都市のインターフェイスだとしたら、都市は世界のインターフェイスになり得、家具は建築のインターフェイスになり得る。)

そういうわけで、僕はこれから、では建築がどうあるべきで何が大切なのかを考えていく必要がある。

たぶん。ということではあるが、ある水準においては建築が環境と人間の調停者となる一方で、ある水準では建築と環境が互いに独立していて人間がその関係を調停する。後者での人間による調停方法の多様さはそのまま、人間と環境との関わり方の多様さにも反映されると思う。それから、後者において建築と環境とが補完し合うのかといったらそうでもない気がする。もっと、依存の程度に偏りのある関係である。そして前者と後者との立ち位置間の、あるいは建築の社会性(社会でそれがどういう活躍を求められているか)とのズレの中に、人間が建築に関わる余地があるように思います。

つまりは、建築がもっとドシンと無愛想であったら…というようなことを考えています。あるいは建築がどうすれば排他的にならないのか。


author:松本剛志
# by matsumo5402 | 2009-09-30 17:23 |
新天町で思ったこと
天神の新天町商店街入り口付近の金文堂とか積文館とかロッテリアの向き合ってる交差点から明治通に抜けるまでの短い区間。日曜日は歩行者天国になっている。そこに安っぽい、さびれたデパートの屋上とかにありそうなプラスチックのテーブルと椅子がどこからかひっぱり出されてきて、サロンのようになってる。あるいはあの狭くて人の多い新天町商店街のホワイエ的役割として機能している。もともと一方通行で1.5車線分くらいの幅の道で、両側にはそれなりのボリュームの建物が迫ってるから、なんか小さな谷底にいるような妙な充実感のある場所なのだけど、そこにテーブルや椅子を置くセンスに感心した。そういうことだよなーと思った。正直少し嬉しくなったのです。

こういうアクションを仕掛けることのできる主体が都市のどこかしらにいるのだということは当たり前のことですが、それでもそれは、こうして僕らが都市を信頼できるか否かという問題において、とてもポジティブな勇気を与えてくれる。

建築を設計する人は基本、自分の設計する建物とせいぜいその付属品までしか扱えないわけで、そういう状況の中で、アタッチメント的に公共に属するモノを建物に想定することは本当に必要だろうか。公共に供する体でありながら、ホームレス云々の心配をするなど。それは都市を運営する、乗りこなす、住みこなす、参加する主体にとって余計なもの以上の価値を持つだろうか。

都市における主体がいる限り、建築を設計する人は、もっと違う水準で都市を構成する建築単体を考えてもいいような気がしている。つまり、都市における現象にそのまま触れようとするのとは違う水準での思考もあっていい気がする。ある意味で丸投げの姿勢である。もちろん事後的にそれと都市における現象との関係をマネジメントする思考はあるに越したことはない。というかあるべきである。
しかしとにかく、現象を(妄想の中で)わしづかみにして、「こうだ!、こうしろ!」というような恫喝するような、あるいは懇願するようなモノとしての仕掛けを建築単体によって用意したとしても、現実の都市はどうせ思った通りには現象しないものなのだから、せっかくならもっと違う水準で建築を考えた方が有意義な気がするし、それは建築を設計する人に特権として与えられてる自由なのではないのかな。(なぜならどんなに情報開示する設計者であっても人間の頭の中はどう頑張っても他者にとってはブラックボックスなものであるはずだから。)という素朴な思いです。

そういうわけで例えば、建築の設計における事後的なワークショップ。つまり、設計の方針とか物語などを強度のあるもの、「もはやそこにあるもの」として共有しながら、建築に関わる(と思われる)主体と議論を交わす形式のワークショップは最近ではちらほら聞いたりするけど、僕はそこに可能性があると考えたりします。
また、僕はむしろ、設計のほぼ完了したモノ自体をもはや強度のあるものとして、事後的に使い方や関わり方を発見していく手法でも面白い気もする。その方が、参加する主体は、よりリアルに都市での現象を想像する、つまり都市を積極的に獲得できるような気がします。


author:松本剛志
# by matsumo5402 | 2009-09-30 02:27 | 晴れ
にわとり
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朝ブログです。

朝ランニングをすればよかったところの、あえてのブログです。

といっても大して書くこともないわけだけど…。



…本当にありません。ああ
# by matsumo5402 | 2009-09-27 08:40 | 晴れ
大蜘蛛
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ちょっと文章のリハビリをしばらくしていきたいと思います。


最近近所でもボコボコ建物が無くなって空地になったりしています。ボコボコは言い過ぎです。ボコ…ボコ…くらいなペースです。見慣れた風景の中でいきなり空地ができると、いろいろな発見ができます。都市の構造(のように思えるもの)がふと現れたりします。それは裏があって側面があって地面がある、見上げると空もある、というような当たり前のことを目の前にあるもの、触れることもあるいは可能なものとして知覚することです。つまり、本来なら触れられるはずのものが僕たちからことごとく引き離されていたのだということを感慨深く理解するわけです。

それから、僕はこの前実家に帰った時に夜トイレに行こうとすると廊下に大きな蜘蛛がのそりとしていたのでその時はやたらと驚いたのですが、彼(大蜘蛛)は、僕らが彼を招き入れたわけでないし、使い方を教えたわけでもないにも関わらず、僕の家の中の壁や床とかを彼の地面として獲得しているのだということを考えると、とても感慨深くなりました。なぜなら彼はゴキブリみたいにバカみたいにジタバタしなかった。彼はじっくり僕と対峙していたわけです。コミュニケーションが発生していました。

その時強く思ったのは、僕はこの大蜘蛛のように、誰のものとも知れない都市を、僕自身のものとしてことごとく獲得していってみせるぞということです。もちろん「所有」とかとは違う意味での「獲得」です。異常な物持ち癖の僕が言うのもおかしな話かもしれませんが、一般的な「所有」というのはひどく窮屈な概念だと思います。この概念が窮屈だからこそ、逆説的に悪質なフリーライダー的行いが発生すると思うのです。「所有」の概念をもっとズラしつつ拡張する必要があると思います。話が逸れましたが、いずれにせよ僕が思った「獲得」は、そういうあらゆる「所有」とは一線を画す方法であるように思います。

うまく言葉にできませんが、あの大蜘蛛の“居方”はとても魅力的に思いました。
場所とコミュニケーションをしていた…そうも言えるかもしれません。
少し違うかもしれませんが、僕は小さな子どもの頃、親の運転する車の窓をひゅんひゅん通り過ぎる建物に自分の姿を見るという危ない癖を持っていました。自分が通り過ぎる建物から建物へと高速のスピードと超人的なジャンプ力で移動している姿をずっと目で追っていました。
都市を「獲得」することの中には、そういう妄想もあるいは含まれるのかもしれません。


author:松本剛志
# by matsumo5402 | 2009-09-26 04:17 | 雲り