松本剛志の考えること
by matsumo5402
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自分会議
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これを読む人が注意すべきことは、この文章の仮想敵は筆者である僕自身であって、一般的な何かを批判するものではないということです。


建築を考えてきた僕の短い人生の中で、「建築は、人間とその周辺にある環境との関係を調整するようであるべき」つまり「インターフェイスとしての建築」というのが一つの辿り着いた、というか無理矢理こねくりあげた末の答えだったのだけど、最近は少し違うように思えている。(ちなみに、ここでいう建築は実体としての“建築物”のことであって、“建築的思考”とは明確に区別しておきたい。)

建築が、調整するのか???

僕は最近、むしろ人間が建築とその周辺にある環境との関係を調整する事の方が無限の可能性を有しているような気がしている。

と、いうのは、建築が直接的なインターフェイス装置(エアコンとか防音装置とか映像スクリーン)のように存在することは、とても魅力的に思うのだけど、建築が人間に媚びへつらって、人間のご機嫌取りをする存在であろうとすればするほど、建築の存在意義が逆説的に薄れていくような気がする。そういう意味で、僕の言う「インターフェイスとしての建築」というキャッチフレーズは、あまりにも捻りがないせいで、それが字義通りに扱われた時に悲惨な結末に辿り着きそうな気がしている。僕らは今、一つの建築にではなく都市全体に住んでいて、建築は都市の中のエアコン的存在、あるいは映像スクリーン的存在になっているというのは、とても確かな実感である。でも、そういう社会構造だからこそ、あるいは社会性だからこそ、そこで建築がただ単一のインターフェイス性しか有せないようであれば、それこそ僕らの社会は、そして社会を構成する諸要素は、ことごとく多様な意味を失い続け、ついには字義通りの原理的な、動くブリキ人形的な、あるいはその歯車的存在以上の何物でもなくなると思う。(そして建築が都市のインターフェイスだとしたら、都市は世界のインターフェイスになり得、家具は建築のインターフェイスになり得る。)

そういうわけで、僕はこれから、では建築がどうあるべきで何が大切なのかを考えていく必要がある。

たぶん。ということではあるが、ある水準においては建築が環境と人間の調停者となる一方で、ある水準では建築と環境が互いに独立していて人間がその関係を調停する。後者での人間による調停方法の多様さはそのまま、人間と環境との関わり方の多様さにも反映されると思う。それから、後者において建築と環境とが補完し合うのかといったらそうでもない気がする。もっと、依存の程度に偏りのある関係である。そして前者と後者との立ち位置間の、あるいは建築の社会性(社会でそれがどういう活躍を求められているか)とのズレの中に、人間が建築に関わる余地があるように思います。

つまりは、建築がもっとドシンと無愛想であったら…というようなことを考えています。あるいは建築がどうすれば排他的にならないのか。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-30 17:23 |
新天町で思ったこと
天神の新天町商店街入り口付近の金文堂とか積文館とかロッテリアの向き合ってる交差点から明治通に抜けるまでの短い区間。日曜日は歩行者天国になっている。そこに安っぽい、さびれたデパートの屋上とかにありそうなプラスチックのテーブルと椅子がどこからかひっぱり出されてきて、サロンのようになってる。あるいはあの狭くて人の多い新天町商店街のホワイエ的役割として機能している。もともと一方通行で1.5車線分くらいの幅の道で、両側にはそれなりのボリュームの建物が迫ってるから、なんか小さな谷底にいるような妙な充実感のある場所なのだけど、そこにテーブルや椅子を置くセンスに感心した。そういうことだよなーと思った。正直少し嬉しくなったのです。

こういうアクションを仕掛けることのできる主体が都市のどこかしらにいるのだということは当たり前のことですが、それでもそれは、こうして僕らが都市を信頼できるか否かという問題において、とてもポジティブな勇気を与えてくれる。

建築を設計する人は基本、自分の設計する建物とせいぜいその付属品までしか扱えないわけで、そういう状況の中で、アタッチメント的に公共に属するモノを建物に想定することは本当に必要だろうか。公共に供する体でありながら、ホームレス云々の心配をするなど。それは都市を運営する、乗りこなす、住みこなす、参加する主体にとって余計なもの以上の価値を持つだろうか。

都市における主体がいる限り、建築を設計する人は、もっと違う水準で都市を構成する建築単体を考えてもいいような気がしている。つまり、都市における現象にそのまま触れようとするのとは違う水準での思考もあっていい気がする。ある意味で丸投げの姿勢である。もちろん事後的にそれと都市における現象との関係をマネジメントする思考はあるに越したことはない。というかあるべきである。
しかしとにかく、現象を(妄想の中で)わしづかみにして、「こうだ!、こうしろ!」というような恫喝するような、あるいは懇願するようなモノとしての仕掛けを建築単体によって用意したとしても、現実の都市はどうせ思った通りには現象しないものなのだから、せっかくならもっと違う水準で建築を考えた方が有意義な気がするし、それは建築を設計する人に特権として与えられてる自由なのではないのかな。(なぜならどんなに情報開示する設計者であっても人間の頭の中はどう頑張っても他者にとってはブラックボックスなものであるはずだから。)という素朴な思いです。

そういうわけで例えば、建築の設計における事後的なワークショップ。つまり、設計の方針とか物語などを強度のあるもの、「もはやそこにあるもの」として共有しながら、建築に関わる(と思われる)主体と議論を交わす形式のワークショップは最近ではちらほら聞いたりするけど、僕はそこに可能性があると考えたりします。
また、僕はむしろ、設計のほぼ完了したモノ自体をもはや強度のあるものとして、事後的に使い方や関わり方を発見していく手法でも面白い気もする。その方が、参加する主体は、よりリアルに都市での現象を想像する、つまり都市を積極的に獲得できるような気がします。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-30 02:27 | 晴れ
にわとり
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朝ブログです。

朝ランニングをすればよかったところの、あえてのブログです。

といっても大して書くこともないわけだけど…。



…本当にありません。ああ
by matsumo5402 | 2009-09-27 08:40 | 晴れ
大蜘蛛
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ちょっと文章のリハビリをしばらくしていきたいと思います。


最近近所でもボコボコ建物が無くなって空地になったりしています。ボコボコは言い過ぎです。ボコ…ボコ…くらいなペースです。見慣れた風景の中でいきなり空地ができると、いろいろな発見ができます。都市の構造(のように思えるもの)がふと現れたりします。それは裏があって側面があって地面がある、見上げると空もある、というような当たり前のことを目の前にあるもの、触れることもあるいは可能なものとして知覚することです。つまり、本来なら触れられるはずのものが僕たちからことごとく引き離されていたのだということを感慨深く理解するわけです。

それから、僕はこの前実家に帰った時に夜トイレに行こうとすると廊下に大きな蜘蛛がのそりとしていたのでその時はやたらと驚いたのですが、彼(大蜘蛛)は、僕らが彼を招き入れたわけでないし、使い方を教えたわけでもないにも関わらず、僕の家の中の壁や床とかを彼の地面として獲得しているのだということを考えると、とても感慨深くなりました。なぜなら彼はゴキブリみたいにバカみたいにジタバタしなかった。彼はじっくり僕と対峙していたわけです。コミュニケーションが発生していました。

その時強く思ったのは、僕はこの大蜘蛛のように、誰のものとも知れない都市を、僕自身のものとしてことごとく獲得していってみせるぞということです。もちろん「所有」とかとは違う意味での「獲得」です。異常な物持ち癖の僕が言うのもおかしな話かもしれませんが、一般的な「所有」というのはひどく窮屈な概念だと思います。この概念が窮屈だからこそ、逆説的に悪質なフリーライダー的行いが発生すると思うのです。「所有」の概念をもっとズラしつつ拡張する必要があると思います。話が逸れましたが、いずれにせよ僕が思った「獲得」は、そういうあらゆる「所有」とは一線を画す方法であるように思います。

うまく言葉にできませんが、あの大蜘蛛の“居方”はとても魅力的に思いました。
場所とコミュニケーションをしていた…そうも言えるかもしれません。
少し違うかもしれませんが、僕は小さな子どもの頃、親の運転する車の窓をひゅんひゅん通り過ぎる建物に自分の姿を見るという危ない癖を持っていました。自分が通り過ぎる建物から建物へと高速のスピードと超人的なジャンプ力で移動している姿をずっと目で追っていました。
都市を「獲得」することの中には、そういう妄想もあるいは含まれるのかもしれません。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-26 04:17 | 雲り
心構え
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ネット上でのあるやり取りを見ていて、言説による攻撃(のようなもの)を受けたときの対処の仕方というのはセンスだな。と思いました。(アドバイスではないよ。攻撃よ。)そしてたぶんこのセンスは心構えと経験値の問題だと思いました。批評に晒された時に飄々としておけるかどうかは、普段から批評に晒される心構えを持たざるを得ない環境に身をおくか否かですね。これを怠っていると、いざの時にどうしようもないのでしょうね。

自分に言い聞かせ。

でも、僕は僕の何に対して批評を浴びようとしているのだろうか…

そこだ!僕に足りないのは!その覚悟か!決意か!
材料はあるわけよね。もっと出していかないと!


…て、なんか僕が嫌いな自己啓発的文章やな、これ。精神論にしか頭が回らなくなっている自分が悲しい。
by matsumo5402 | 2009-09-26 02:49 | 雲り
夏休み
最近文章を記していませんでしたが、今日思ったのが、文章を記しておくべきだったということです。僕にとって文章を書くことは、常に自分が閃き的に、脊髄反射的に考えた物事と、論の展開、つまり物事と物事との繋ぎ方に整合性を確保しようとする事との間に発生する、如何ともし難い数々の矛盾と格闘することなのです。どんなに稚拙な考察や指摘をしてしまったものであっても、この矛盾への挑戦をしたものである限り、少なくとも自分にとっての価値のある記録であることに変わりない。思考を固着させる事で、つまり思考の型を用意する事で、つまり文章のための文章を書こうとする事で、矛盾を生じさせないクールな文章の書き方もあるかもしれません。しかし僕の文章を僕自身は僕があらゆることに対しての思考を固着させてしまうことから必至で逃れようとする逃避行の軌跡として書いて読んでいます。僕は自分の書いた文章をめちゃくちゃ読んでいます。僕は僕の文章達を、僕自身の思考のそのときどきにおける帰結のストックとしては考えていません。つまり僕の文章は僕が僕自身の中であらゆる合意形成を行なうための規範となるものではないということです。僕の文章はある状況における僕の思考の一側面の照射なのです。そういう意味で僕の文章は全て、常に僕自身に対してその都度ネタを提供するものなのです。その都度僕にとってのスタートをその場に用意するわけです。僕は一人でネタ的コミュニケーションをひたすら行なっているようなものかもしれません。しかしそうすることで、常に何らかの跳躍をできると確信しています。ただしこれは、どこかへ向かおうというわけではなく、僕が存在できる領域を拡大しようとしているわけです。
もちろん、一つ一つの文章それ自体は常に固着化してしまった何かしらの意味であるという事実には変わりないです。僕が僕の一連の文章を、どんなに僕の果敢な挑戦の歴史として読んだとしても、僕以外の人は僕のそれぞれの文章を僕そのものとして受け取るのでしょうし、僕自身も一つ一つの文章に対峙するときはその文章を(当時の)僕そのものとして受け取ることになるでしょう。しかし、そこは僕が僕自身のアイデンティティを確立するためには避けては通れない道でもあります。つまり僕以外の誰かの意識の中で僕の存在の意味が固着していることによって、逆に僕がその誰かの中の僕をもう一度経由することで今の僕との距離を確認できることになるからです。そこに僕は僕自身の可能性を見出そうとするわけです。それが他人とコミュニケーションするということだと思います。そしてややこしいのですが文章を書くということはそのコミュニケーションが当面自分一人でも成立できる環境を構築することなのです。ここ最近文章を書いていなかったために、僕は以前ほど、つまり文章を書いて読んでいたときほど自分とのコミュニケーションが有意義でないのです。


author:松本剛志
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by matsumo5402 | 2009-09-25 04:11 | 晴れ
鏡花水月
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青森県美術館に行った。
そういうこともあり、事前に青木淳さんの原っぱと遊園地を始めて読んだのだった。
始めて読んだといっても昔の雑誌などでいくつか目にしたセンテンスもあったし、「原っぱと遊園地」というフレーズで言わんとしていることもなんとなく理解していた(つもりであった)。
ただ、一冊の本の中にここまで執拗に「原っぱと遊園地」にまつわることが論じられると、このフレーズには相当に深い根が存在しているように思われた(、というかたぶんそうだろう)。それは青木さん本人の経験や思考にとどまらず、磯崎さん、さらにはミース、コルビュジェに至るまでの主に近代以降の建築が成してきた経験と思考までもを、このフレーズの中に絡めとろうとしている。それらを養分にして青木さんは建築を培養するのである。

思ったことは、僕が普段建築について考えていることが、青木さんのそれと、多くの部分で重なるということである。これは、メディアを通して情報として入ってくる青木さんの言説が自然に僕の中に無意識のうちに浸透していたのか、それともただ単純に各自考えていたことが偶然(あるいは必然に)一致したのだろうか。…ということの違いはまあ、本質的にはどうでもいいのだろうけど。たぶんどっちもである。ただ、前者のメディアにおける青木さんと僕との関係には、まだ逆が成り立たない、というのは悔しいところではあるが、まあそれは僕の頑張り次第の問題である。
この本を読むにあたってよかったことは、僕が青木さんに対して少々懐疑的であるということだった。つまり青木さんの言説が僕の中に浸透していたにしろ、それは無意識的であって、意識の上では青木さんに懐疑的であり得ているという点に、僕にとっての救いがある。
情報とは兎角そういうものである、と最近僕は考える。情報はもはや人間の中に無意識的に浸透していくものなのだ。それを受け入れた上で、まだ情報に対して体系的に批判し得るか。そこにかかっている。それによって建設的な自己批判が可能になる。

そんな中、僕が青木さんの言説の中で一番感心したのは、決定ルールの話である。例えばこの本の中に土木構築物賛美がなされているが、それでは建築は土木のように作るわけにはいかないのか、ということになる。構造や経済の合理性だけに身を委ねるような「決定ルール」には何が欠如しているのか。建築と土木との違いは何か。土木構築物は常にその形態に目的を備えているのである。つまりその物理的な存在自体に物語性を有しているということだ。建築は普遍的な物語性がない。いや、今の時代に限って言うと、ない。この時代の特徴は物語を普遍化しないということである。では「決定ルール」を敷衍するための物語はどこに見出せばいいのか。青木さんはそれを宙ぶらりんにしてしまえと言い放ったのです。目から鱗です。無根拠が根拠を与える。なんと奥ゆかしく魅力的な逆説。こういうのを鏡花水月法というのだろうか。いや、ちょっと違うのかな。
なににしろ、ある種の諦観。成熟期のロジック。こんなこと言うとたぶん青木さんはブチ切れでしょうが(もしかしたら喜ぶかも?)、ゴシックのクレイジー・ヴォールトの様な代物を生み出すメンタリティに少し近いのかもしれないと思った。倫理的な部分は明らかに違うでしょうが。

僕はその部分において青木さんを評価し、同時に批判するのだろうなと思います。あなたは媒体としては完全だけれど、故にそこからどこへも行けないのではないかと。あなたの論理では建築家が、「いい空間」を生成するための機械以上の何者でもなくなるのではないかと。それでもいいのかもしれないが、僕はもっと政治的なところにまで踏み込む必要がある気がしている。

「体系的に批判する必要」などと最初に書いたが、全く体系的にならなくて悲しい。これはただの愚痴と法螺にすぎないです。具体的な展望さえも探り中なのです。ごめんなさい。
消化不良なので、また書きたいと思います。

ちなみに、青木さんの考察を読んでいて、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をなんとなく思い浮かべたのでした。

author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-03 12:51 | 晴れ
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一昨日ですが、24歳の誕生日を無事迎えさせて頂きました。もう四半世紀近く生きてることになるわけですね。だけど僕はまだまだ何者でもないようです。ひどく洗練されない生き方をしている自分を可哀想に思ったりもします。自分の周りにいる人を気の毒に思ったりもします。でも一方で、自分を心底信頼していたりもします。自分に裏切られることも多々ありましたが、それでもまだまだ自分は信頼に足ると信じて、疑うことができません。

口だけにとどまらぬように


今年の誕生日は、いろいろあって、中目黒にある安宿で迎えました。いや正確には終電前でごったがえしの新宿のカフェになるか。一日中せわしない感じの誕生日になって、とても面白かったです。なんか今年の激動を予感させるようです。激動になれるでしょうか。

そして、昨日は3人目のフランス帰りの友人を差し置いて、ケーキまでいただきました。そしてその後大量のお酒のせいで道で吐きました。もったいないことしてごめんなさい。


手紙やメールや祝いの言葉やプレゼントなどいただきまして、ほんとうに心が温まる。いろんなことに対するモチベーションとは、根本的にはこういうことなんだと思います。どんなにドライであろうとしてもどんなに小難しくなろうとしても、根本的にはそういうことなんだと思います。
何かに追い立てられても、そこだけはいつでも立ち戻れるうちは、まだ大丈夫だと思います。


あー、俺の誕生日ということは、8月が終わったのやなーーー

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去年::5423
by matsumo5402 | 2009-09-01 22:18 | 晴れ