松本剛志の考えること
by matsumo5402
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長崎
明日、長崎水辺の映像祭プレイベントに参加してくる。

友人に誘われてなんとなくおもしろそーやねー、みたいな感じやったけど、なんかホームページみよったらかなり楽しみくなってきたー!

講演会ももちろん楽しみけど、それよりもその周辺の活動のが面白そうやなー、って思って、楽しみー。その周辺の活動みたいのがこのブログからちょっぴり垣間見えてるけど、なんか街に出てのイベントとかをいろいろやってたりしてたりで、なんか爽やかに過激なことをやってのけてるというか、そういうのができちゃう背景にはどんなのがあるんだろう。

僕は全然このような活動のことを今まで知らなくて、僕の耳に入ってくるような長崎のイベントといったら、やっぱり原爆とか出島とかなんとか、そういうある意味で普遍的なあるいは特殊で抽象的で僕たちの手に負えないような“歴史性”の下に行われてるものが多かった気がする。

そういう意味での“地域における歴史性”はすごく大切だと思うんです。僕は。
ただ、そういった“歴史性”に対する僕たちの関わり方があまりにも唐突というか、付け焼き刃的ではないかと日々思っていました。
もっと、僕らとそういう“地域の歴史性”関係付けているものは何かを地道に探っていく、あるいは創っていく努力が必要だろうというわけです。
もっと、歴史とは神聖で絶対的なものだけではなく、そういう水準での歴史もありつつ、もっと身近で僕らに編集可能な歴史もあって、そういう身近な歴史と普遍的な歴史が連続していってるみたいな感じになる地域を目指せたらいいのではないかと思う。
生活と歴史が断絶するのではなくて、もっと生活と歴史が流動的なグラデーションで連続しているみたいな。
ちょっと抽象的な議論に向かってしまってるけど、例えばなんか「あの時あそこは、こげんやったとばい。」「んにゃ、あそこはそげんじゃなくて、あげん感じやったろうが。そげんなっとったとは、向こうのほうばい。」「そげんやったかねー?」みたいな会話ってたぶん日常的にあって、そういうのが生活を作ってるんだと思うんだけど、そういうあいまいな、でもイキイキしたコミュニケーションが歴史に絶対的な“歴史性”とかに抑圧されないようにしなくてはならない。
要は、僕は、歴史こそは、本質的には保守的ではなく、どちらかというと革新的であるべきじゃないかと思うわけです。

僕はそういうことを考えても一向に行動には移しませんが(笑)、今回のイベントのためにまさに奮闘しているteam.SSさんらは、彼ら自身は何を考えながら行動をしているのかはまだわかりませんが、僕の目から見ると自分らが暮らす場(環境)と自分らとの関係を見つけていこう創っていこうという意思を持っているように思える。
まあ、そういうのも明日明らかになるのかな?

ちなみに、最初らへんに、長崎にはろくなイベントがない、みたいなことを言ってしまったけど、そういえば何年か前に長崎さるく博っていうイベントがあってて、このイベントは観光客が地元住民と一緒に街をヒーコラ歩き、住民の思い出話や蘊蓄を聞くという、なんとも泥臭いイベントなんだけど、僕は上に書いたような理由ですごくいいイベントだなーと思った記憶がある。公共の発案にしては(というような言い方は失礼きわまりないけれども…)、とても前衛的でかっこいいです。


それからやっぱり、そういうのの思想的支柱としては、元長崎美術館館長の伊東順二さんの存在は大きいのでは。と勝手に予想しています。僕も彼の言うことには共感する部分も多くて、この宣言文にあるような問題意識には特に共感した。「with you」かよ、とは思ったけど(笑)。こういう人間がいろんな地域から誕生してそれぞれの地域に働きかけるようになっていけば…。地域の可能性はその辺にあるのではないかとさえ思う。


それでは面白かったらまた感想を書きます。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-30 23:56 |
インターフェイス その2
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最近の興味。

上の写真のような風景を作れたらいいなという思い。このマンホールになぜか水が張っている。なぜか。ぼくはこのマンホールはそこの場所の性質や歴史をほんのちょっぴり垣間見せてくれる、環境と人間とのインターフェイスの一種になっていると思うわけです。

そんな感じ。


こういうのがもっと人間の知恵で作られていったら、人間は環境をもっと楽しむことができるんじゃないかいな。



地域性みたいなのは大切だと思いますよ。

でも何をもって地域性としたいのか。
それも考えずにバカの一つ覚えみたいに誰かの言葉っぽい意味での地域性を「地域性地域性!」と繰り返すような議論にはもううんざりです。

まずはそこから考えることから始めてみたいという思いなのです。


どうなのだろう。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-29 02:12 | 雲り
つれづれ
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最近、コーヒー飲み過ぎ病。
この前、コンペの対策のためにタバコを二本吸った。
コーヒーとタバコ…
ハードボイルド
でも体には悪そう。
でもそのかわしコンペは順調。
対話を積み重ねながらモノづくりをすることの可能性を感じる。
さっきはまさに最後の決定打が繰り出されて興奮した。

それから今日はしゅうまいだった。
ちょっとザックバラんになりすぎたかもけど、
たまにはこういう雰囲気も悪くないと思った。
楽しかった。

それから後輩に今年のsunset liveの情報を教えてもらった。
とても行きたい。
夏が来ますよ。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-25 01:35 | 晴れ
不毛なこと
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今日は家庭教師先のご家族の方と、なぜかメディアの問題についての議論になってしまった。
マスメディアへの信用は徐々に(とっくに?)失墜している。
これからの、インターネットの更なる発展と日常化によって、メディアの個別化が突き進んだ先に、我々は政治への感覚を取り戻し得るのではないかという話。
インターネット時代の情報リテラシーみたいな話は、だいぶ前からずっとあるけれども、いよいよそのことを本気で誰もが考えなくてはいけないのではないか。
大衆の情報リテラシーの欠如を理由にメディアの個別化を懸念していても何も始まらない。
メディアの個別化を前提として大衆の情報リテラシーを鍛えていかなくては。

しかし、情報リテラシーの教育こそが、マスメディアに変わる、新たな制度として出現してしまうのかもしれない。
制度の話はいつまでたっても難しくなる。本質的に不毛な話題だ。

でも最近思うのは、不毛な議論になるような話題の中にこそ、最も大切な、考えるべきことが存在していることが多いのではないかということです。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-23 21:56 |
モチベーション
「やりたいこと」という言い方はあまり好きではありません。
何かを「やりたい」と思う気持ち(モチベーション)は基本的に一つの「こと」に還元されないように思うからです。

そうは言っても人間の行動をミクロに見ていくと、常に「やりたいこと」は存在しているとは思います。
僕が言いたいのは、人間の活動を人生レベルとかでマクロに観察しようとする時に、ひとつの「やりたいこと」の中に総括してしまいたくないということです。
昨今の社会システムは、僕らにそういう普遍的な「やりたいこと」を強要しがちであるような気がしています。

僕の持論なのですが、物事に対するモチベーションとは、必死になって見つけようとするものではなく、何かをコツコツとやってる時に、じんわりと出現してくるものであってもいいと思うのです。
だから最初にコツコツやる「何か」は、一番近くにあって取っ掛かり易い「何か」でいいと思っています。
最初のモチベーションは「近くにあったから」とかでもいいのではないかと。
「まんねり」の中にこそモチベーションは生まれると思います。

ドラマティックなモチベーションの誕生は確かに格好いいのですが、ドラマティックじゃないモチベーションにも自信を持っていい気がしています。
なんか変な言い方ですが。

もちろん、もっとドラマティックだったり信念に満ちたようなモチベーションを持つことに対しては、完全には否定的にはなれません。
しかしながら、そういう確固たるモチベーションを持ち得なかった人がいるとして、そういう人がありもしない借り物のようなモチベーションを捏造して苦しむよりは、何か個別的で場合によっては支離滅裂であったとしても自然に湧き出てくるようなモチベーションに従った方が充実し得るのではないかと。


 
…と、まあ、ちょっとわけのわからないニートの精神論のようなことを最初に述べてしまいました。笑

何なのかというと、近いうちにやりたいなー、と思うことが一つあります。

「妹島和世」研究。
彼女の建築言語(のようなもの)はもはや日本の建築界(特に30代から20代くらいまでの世代)に決定的な影響を与えているように思います。
彼女の建築作品は「抽象的である」というようによく言われます。
にもかかわらず、多くの人が影響されているのは、抽象化後の具体的な建築空間がほとんどであるように思えてならない。
そもそも彼女が何を抽象化しているのか、あるいは本当に抽象化を志向しているのか否かを問題にすることなく、“抽象的っぽい空間の具体例”としてしか参考にされないことがほとんどだという気がしている。彼女の建築を肯定するにしても批判するにしても、基本的にはこの土俵からはみ出すことはないと思う。
こういう形骸化したものは、誤読であったり読み替えによって新たな可能性が見出されるとしたらまだ希望はあるのだが、そうならないない場合が多いというのが僕の認識である。多くが断絶すべき対象として捉えられるのではないか。
これは現在の人間が行う、モダニズムやポストモダニズムに対する批判とは、多くがそういう形骸化したものに対して向けられていることからも推察できる。

メディアの発展によって情報が多く早く手に入るようになることで、物事の形骸化とは起こりやすくなっているのではないか。
いろんなことの断絶がものすごいペースで訪れているような気がする。
もっと連続的に歴史を紡いでいくために、物事を“詳しく見る”ことをした方がいい気がする。

そういうわけで、“詳しく見る”対象として、日本においてあるパラダイムを作り出したと思われる妹島和世を扱うことは、いろんな方向に対して批評性を持ち得るような気がしている。


ボチボチやってみたいと思います。少なくとも学生のうちには。
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author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-19 03:26 | 晴れ
白飛び
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ホワイトアウトしていくような写真が好きです。
影とは違う水準で“光”と“モノ”との関係を見ることができている気がします。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-18 23:10 | 晴れ
熊本
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だいぶ前けど、熊本に行った時の写真。あまり撮らなかったけど、面白いのがいくつかあった。
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熊本の某美術館のサロン。本棚に潜り込んだりできる。左上の水色の光はタ◯ル(?)。この後、美術館の人に写真撮ったことを怒られた。だから内密にー
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商店街にあった、中庭囲み式テナント群。レストランとかカフェもあって、気持ちがいい。それから僕はやはりどうしてもコンクリートと緑と日光の組み合わせがどうしようもなく好きなようだ。
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市街地ではなんか祭りがあってて、市電の走る道が歩行者天国に。何でわざわざこの道を…とも思ったけど、貴重な風景ではある。そういえばこの道の突き当たりで、僕は初めて八代亜紀をナマで見ることになったことを思い出した。
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城下町熊本の都会っぷり。熊本はなんか、都市でも建物でも何でも、なんか一個一個がドッシリとして見えるあれはなんなのだろう。
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ある昼下がり。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-17 02:37 | 晴れ
ある日 夕方
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だいぶ手狭になってしまった
それでも好きな空間のひとつ


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-16 00:59 | 晴れ
田平教会
先日、学部生の演習授業のティーチングアシスタント(TA)の仕事で、演習のフィールドである平戸の実地調査に引率として参加した。

とはいうものの、調査自体が学部生達の課題であったので、僕らTAは少し暇を持て余してしまうこともあり、平戸市郊外の田平町にある田平教会に行ってみることにした。

田平教会はリンクの中の説明に詳しく書いてあるが、明治時代の長崎における教会建築の第一人者鉄川与助によって設計されたとされている。
以前先輩のymnさんに薦められてて、ずっと行けてなかったので、チャンスと思い行ってみた。


c0160617_0212658.jpgとりあえず、腹ごしらえにヒラメ茶漬け定食を食った。豊鮨というお店。もう一人のTAのmはタイ茶漬けを食ってた。お店にいけすがあって、その場で捌いてくれていたようだった。
そんなわけで結構いい値段だった。味は普通にすごくうまい。個人的には茶漬けよりもセットでついてきた茶碗蒸しが好きだったけど。

それからタクシーで教会に向かう。平戸市街地から教会までは15分くらい。片道2000円くらいかかってしまったけど、とりあえず着いた。最近やたらとケチだったから、この出費は…、と思ってしまったけど、まあ給料出るしいいかと思うことに。
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どーん。
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駐車場側から。教会にとっては裏側から。煉瓦の外壁(一部、木の板)に瓦葺きの屋根。この堂々としたつぎはぎの佇まいには不思議と違和感を感じなかった。
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内観。
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ヴォールトがすべて木によって構成されている。柱とリブだけでなく、セルも木だった。木の板でセルの微妙な曲面を作り出している。
この木のヴォールトは純粋な構造体なのか否かという議論になったが、おそらく構造体ではないのではないか(少なくとも主要構造体ではないだろう)というところで落ち着いた。なぜなら、リブ・ヴォールトによるゴシック教会に特徴的な軽快さが外観に現れていない。そもそも石と比べて圧縮に強くない木だけでここまで巨大なヴォールトを作ることは普通に考えて無理だろう。よって内部のリブ・ヴォールトは主要な構造ではないのだろうと考えたのだ。
後で土居先生に確認したりネットで調べたところ、やはりこの教会の主要構造は木造ではなく煉瓦造(ただし柱の木は構造体として機能しているようだ。そういう意味では混構造)だった。(ただし、土居先生のブログの記事を読んで、ゴシックの外観でないからヴォールトが構造体として機能していないだろうという仮説はあまりにも短絡していたようであることに気付いたが…。

そういうわけで、この教会では内部空間がある意味ではハリボテ的な表象として、煉瓦による構造形式を表象している外観と乖離している。(どのレベルで乖離しているかは図面などで確認しないとわからないが。少なくともインテリアとエクステリアを構造形式によって統合しようというようなメンタリティではない。
僕らの(僕の)価値観として、やはり建築においては機能と構造と内部空間と外観はすべて何らかの一貫性を表明していなければならないのではないか、とどうしても考えてしまうのであるが、この教会のような堂々さを見ると、僕の今の価値観は、もっと長い歴史や広い文化との関係で見ていくと、まったくもって普遍的なものではないのだろうということを実感する。(この辺のことに関しては先の土居先生のブログを読んでいてもそう考えさせられる。様式であるとかそういう価値は僕には理解できないが、そういうことが重要である文化もあるのだ。ポストモダニズムの一部の潮流においては、そのような様式の意味などを現代に持ち込もうとしたが、あまりうまくいっていない。建築とはやはり、その時代や地域ごとの文化的なコンテクストとの協調性が大切なのだろう。
この教会を建てた彼らには、彼らにとって重要な何かしらの価値が存在していたのだと思う。そのことは、この教会の手入のよさなんかを見ても明白だと思う。今現在も脈々と受け継がれているようだ。(もちろん貴重な観光資源として大切にされている側面もあるのかもしれないが。
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ステンドグラス
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絨毯敷の床で、玄関で靴を脱ぐ。何とも日本的。そういうわけで床にも座れる。
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テレビ取材があったらしい。なぜか花が供えられている。
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正面から引きで。
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いい感じの石段。
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振り返る。天気がよければたぶん海が見えたと思う。
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墓。日本的な墓石の上に十字架が載る。
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入り口の階段周りがかわいい。

信仰のパワーというか不思議さを感じつつ、市街地に戻る。いいモノを見れたと思った。



しばらく街を歩いた。学部生はそれぞれ調査を頑張っていた。街が小さいからあちこちで姿を見た。
残り30分くらいのとこで、調査を終えたというtrと刺身とサザエのつぼ焼きを食いながらビールを飲んだ。これも調査の一貫だ。笑。お店の名前は忘れたが、卸市場のような雰囲気で、ピロティの下の半外部的な空間に無愛想に机がおかれてて、その場で捌いたり焼いてもらった。相当、気持ちのいい空間。しかもメチャクチャに安い。そしてうまい。

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帰りのバスはビールのせいでトイレが近くて困った。
疲れたと思ったけど、こう振り返ると結構充実してるじゃん。お金は使いまくったけれども。


平戸の街についても考えさせられることがいくつかあったけど、それはまた今度書こう。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-15 02:09 | 晴れ
しゅうまい
最近、うちの学校では久しくご無沙汰していた“しゅうまい”が再開された。
後輩のA君がとても頑張ってくれている。まずは感謝。参加しているメンバーのモチベーションの高さもとても気持ちいい。


ちなみに、“しゅうまい”とは“毎週住宅を作る会”の略である。文字通りの意図としては、毎週メンバーそれぞれが考案した「住宅」作品を持ち寄って、それらをネタに議論をおこなうというものであるのだろう。ただ、この“しゅうまい”は全国展開されているし、まあまあ歴史もあるようだから、本来の意図はもう少し違う射程を捉えていたかもしれない。

九州(というか芸工大)においては、もっと幅広く“住宅に(直接/間接に)関係するもの”というように捉えて、都市からインテリア、家具、あるいはもしかしたらグラフィック等の類いであっても、とにかく議論のネタになりそうであれば持ち込んできてもオッケイやろ、というようなスタンスをとっている。

ただし、毎回テーマは設定している。僕自身の考えとしてはもう少しテーマを軸とした議論が展開されるようになれば面白くなるだろうと思う。CIAMでも毎回テーマは設定された。CIAMの解体はメンバーの報告(ネタ)が共通のテーマを向かなくなってきた(エントロピーが増大した)時に起こった。“しゅうまい”はCIAMの縮小版として捉えることも可能だ。よってこういう場に参加する場合は意図的にある程度は共通のテーマを志向しなくてはならない。
かつては“しゅうまい九州”でもテーマを軸とした一貫した議論が展開される時期もあった。その後は参加者が徐々に減ったこともあいまって、作品の個別講評的な状況が主となってしまったのが少々残念なところではある。これはこれからの課題である。

それから、共有のテーマを志向するとはいっても、“しゅうまい”は統一的な意思を備えた運動体にはなるべきでないように思う。CIAMはル・コルビュジェの意思の体現としての実体となってしまったという一面がある(一般的な認識としては)。個人的には、この状況は非常に残念な事態なのであるが、その問題意識は僕の修論のテーマにも連続している。
“しゅうまい”はあくまで「場」としての存在に留まるべきであると考えている。どのような価値観、どのような背景を持った人間であっても自由に出入りできる「場」であるべきなのだ(と思う)。
統一的な意思を備えた団体が“しゅうまい”から排出されることには何の問題もない(というかむしろ喜ばしい)のであるが、“しゅうまい”自体が強い意思を持ってしまうことには注意すべきである(と思う)。


まあ、そういういろいろは抜きにしても、わきあいあいとフラットに議論できる場があるということがとても楽しいと思いませんか?
大学で歳をとるとTAなどで学部生にアドバイスをするという機会はもちろんあるのだけれども、そこには必ず授業であったり単位であったりの学校特有の制度が入り込んできて、フラットな議論は絶対に成立しない。それはそれで必要なのだけれども、そこに安住してしまうのは危険だと思う。常に自分もチャレンジャーであるべきと思います。そういう状況は個人の気の持ちようで如何ようにもなるのだけれども、キッカケが掴めないとかいう人にとっては“しゅうまい”の利用価値はとても大きいはず。

とにもかくにも、自分自身、学部の若いうちから、この“しゅうまい”という「場」に参加させてもらって、建築を考えることの楽しさを知ったし、それは同じように建築を楽しく考えている先輩であったり友人や後輩なんかと出会えたのが一番の収穫であった。これはこの大学に入ってよかったと思える主な理由であるような気がしている。

だからというわけではないのだけれども、ぜひこれからもそういう“場”がずっとあってくれれば、この学校がまだまだ楽しい“学びの場”として機能してくれるのではないかなー、と期待しているのです。もし誰かにとってこの学校が単なる“苦痛の場”でしかないとしたら、とてもいたたまれない。“苦痛”はかならず“快感”に変わるようにしておかないと。笑)



最後に。大学に入って悔しい思いを何度もしながらここまで来たし、これからも、そして卒業した後もその連続だと思うんだけど、僕は「悔しさ」と「楽しさ」というのは裏表だと思っているのです。成長とか進歩とかっていう言葉は僕は全然好きではないのだけれども、何かしらそういう「前に進む」ような感覚があるとしたら、「悔しさ」を「楽しさ」に繋げれた時ではないかなと、何の根拠もないけれど経験的にそう感じている。つまりは、「負けず嫌いであれ」、ということではないかと。そしてその負けず嫌いさをいかんなく発揮する場としては“しゅうまい”はあまりにもピッタリすぎるのではないか。とね。

という、“しゅうまい”の宣伝でした。このブログを読んでくれてる人で誰か参加してくれたらとても嬉しい限りです。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-11 15:09 | 晴れ