松本剛志の考えること
by matsumo5402
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三菱地所アルティアム開館20周年記念展
三菱地所アルティアム開館20周年記念展のオープニングに行ってみてきた。

記念展の参加アーティストは荒木経惟、会田誠、奈良美智、草間彌生、江上計太、袁廣鳴、ジャナイナ・チェッペ、福田里香。

なかでも会田誠さんのジューサーミキサーを生で見れたのがよかった。

美術史的な批評は僕にはあまりできないけれども、僕の個人的感想としては、会田さんの絵画を見る時にいつも思うのは、一人でじっくり見たいということ。笑
この感覚は、マンガで言えばGANTZとかサイコとかを読む時とかにも発生してしまうんですが、というのもそれはまあ単純な感情であって、これらの絵画やマンガって基本的にグロいものやエロいものを題材に描かれる絵が多いから、熟視したり熟読する様子を他人に見られるのには抵抗があるじゃないですか。
けど、相当リアルに丁寧に解像度高く描かれてるし、優れたストーリーもちゃんとあるからどうしてもじっくり見たい。
だから一人で見たいというわけです。

ただ、そういう時でも僕はやはり、「僕はストーリーを見ているんだ」というふうに“自分”に言い聞かせるように鑑賞しています。笑
「この作品の本質はストーリーにあるんだ!」と思い込ませながら。
だから「この作品はストーリーが面白いんよね。しかも加えて絵も結構きれいなんよ。」みたいに評価するわけです。ストーリーがまず第一だというような認識で。
一方で、「とは言ってもやはり自分は絵の方を見たいんではないか」とも思う“自分”もいます。そういう“自分”をできるだけ頭の端っこに追いやりながら、絵を見るわけです。

そこから派生して僕が勝手に確信していることがあって、それは、実のところ会田さんもGANTZの奥さんもサイコの田島さんも、“絵”あるいは“イメージ”を描くために“ストーリー”を作っているというのが根本ではないかと。(まあ、サイコの場合は大塚さんが原作を作っているわけですけど。)
これは逆に言えば“ストーリー”を持つことによって、描きたい“絵”をとことん描けるようになるのではないかということ。
ちなみにここで僕の言う“絵”っていうのは、彼ら画家・漫画家の本能的な欲望のイメージのことです。

そしてこれは全ての人間の表現活動に多かれ少なかれ通低しているんではないかと。(強調しておくけど僕の勝手な確信です。)
いろいろ御託というか“理屈”を並べるけど、結局のところは自分が表現したい“イメージ”があって、質の高い“理屈”を開発するのではないかと。(ついでに言うと、それらの“理屈”がある共同体の中で普遍化する(していく錯覚に陥る)ことで文化が生まれているのではないかと。)
逆に言えば優れた“理屈”であったり“意味”を持つことによって、とことんまで自分の表現をできるのではないかと。(少なくともそうすることで表現をできるようになる人間がいるのではないかと。)
そう確信しているのです。勝手に。

絵画だけではなく、建築でも文芸でも音楽でもそこのところは一緒なのではないかと。
ストーリー(意味)を本質だと思いがちなのは、欲望(イメージ)を表現していることをなるだけ隠したいから。というか、そもそも欲望の言語化は非常に難しい。言語化というのは正当化とも同義だと思っていて、欲望って誰もが共感できるものであるにもかかわらず、なかなか正当性を与えられないものが多い。
これは作者においても鑑賞者においてもある程度同様な反応なのではないかと僕は思ったりしてます。


…だからどうした。って感じですけど笑)、そういうことを最近思うわけです。
隠したいものがあるからこそ、文化があるのではないかと。
そんな壮大なことを思うわけです。


ちなみに、今日のオープニングでは会田さんと奈良さん本人を見ました。2人とも結構普通のおっちゃんでした。人混みに違和感なく紛れていました。
そういえば奈良さんなんかはこの前ニューヨークの地下鉄にペインティングして捕まった(笑)らしいけど、まあ、確かにこれは普通に捕まるやろうな、と思いました笑。オーラが普通すぎ笑。
奈良さんごめんなさい。。まあ、能ある鷹は爪を隠しますからね。
すごく親近感を覚える人達でした、2人とも。
見ただけだけど。



あ、あと、タダでお酒も飲めます。
たぶん普通の会期中も。
入場料もタダでした。
最近タダというワードに敏感に反応してしまいます。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-30 23:24 | 雲り
あれ
この前、西鉄大橋駅界隈にできたあれ
by matsumo5402 | 2009-05-27 23:19 |
大学の夜中
こんな夜中なのに今日のキャンパスは賑やかだ。
笑い声がする。
なんか、いいことやと思う。

もちろん夜中に起きて騒いでるのがいいこと、というわけではなくて。
むしろ、近隣に迷惑になるような騒ぎ方であれば、当事者が責任を持って鎮めるべきだとは思うし、
夜更かしは単純に考えて健康によいとはあまり言えない。

何がいいかというと、何といえばいいのだろう、
学生の“自由”な活動を、ある程度容認している大学の性格というか気質というか。
あとそれと、比較的恵まれたキャンパスの環境(立地とか敷地の大きさとか建物の配置とか)というのもあるかな。
そしてそれらに自主的に、あるいは自分の責任で関わっている学生の存在というか。

ただまあ、僕が入学したての頃に比べると、少しずつ規制が厳しくなってきているのは否めない。体制にしても環境にしても。

それでも大学は、僕が主体的に関わることのできる、唯一の公共施設である。今のところ。

それを「授業料を払っている見返りだ」という言い方とか考え方はもったいない。
僕らがサービスを受けるだけの立場(つまり自分らには責任がないという立場)に回ってしまうのはすごくもったいない。
僕らが一方的に学校にサービスを期待するようであれば、学校は一般的で常識的な、あるいは形式的な価値観において質の高いサービスを提供するために規制を強化するだけだと思う。
僕らはただそれを傍観することしかできない。

それは大きく言うと、今の僕らと日本政府との関係にも同じようなことが言える(税金を払ってるんだから政府が全部なんとかしろ的な)かもしれないけど、
とにかく自分の責任を放棄することは、つまり相手の言い分に全て従わなければいけないことを意味していると思う。

そういう意味で、まだ僕らに幾分かの責任を持たせてくれている大学は、ある意味で社会性に優れていると言えるのではないか。(他の大学の状況はよくわからないけど。)
よく、「大学でやってることは社会に出て通用しないんだから、大学には社会性のかけらもない」、というようなことが言われるが、現状の社会に適応できるか否かだけで社会性の優劣を問われることにはとても疑問である。(もちろん、意識の低さ故に、社会性に劣る、というか人間性に劣るような人物が大学にいないわけではないかもしれないが。
そういう人間には、社会とは、社会性とは、を考えることをしてほしい。

少なくとも、社会に対する責任を放棄することが社会性である、ということだけは絶対にあり得ない。

と、僕は思いたいです。

なんか、そう考えると、大学に対して僕らは何かやるべきだと思えてきた。
いや、「やるべき」という言い方はおかしいな。
何か「やってもいい」と思えてきた。
自分らの責任で。
まあ、思えてきたけど、面倒いからたぶんやらんけど。

たぶん僕も社会性はそんなない。
少なくとも協調性はほぼない笑

まあ、でも、変わらんといけん、とは思わないでもない。


あ、もう静かになりました。帰ろ。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-24 02:36 | 晴れ
Mishima: A Life In Four Chapters
今日は学校で、ある授業に潜入してある映画を見た。
Mishima: A Life In Four Chaptersという映画である。
映画のレビューなんて未だかつて書いたことないけれど、なんかちょっとだけいわく付きの映画だから珍しい経験ってことで、まあ拙い感想文レベルで書いてみようと思う。

この映画の詳細に関してはWikiなんかでも調べれるけれども、まあ簡単に内容を言うと、三島由紀夫の人生を追体験してみようというもの。
あとそれと、製作陣も役者陣もかなり豪華。気合が入っています。

いわく付きというのは、要は日本では公開ができないということ。アメリカと日本の共同製作(1985年←僕の生まれた年)らしいんだけど、アメリカではちゃんと公開された。日本では、さあ公開だ、という時に諸事情により公開ができなくなった。未だにDVDやビデオさえ日本の市場には出回っていない(らしい)。
なぜか。ひとつは三島の遺族による、日本国内での公開への反対があったらしい。反対の理由としては、三島の(ほんの少し)スキャンダラスな性癖が、(これまたほんの少し)描写されていたことによる名誉毀損の訴え、というのが一応の定説である。まあ、そうではなくとも、おそらく現在の日本人にとってできるだけ触れたくない出来事である三島の自決を真っ向から扱った作品であるというのは、それを再び世間のセンセーショナルな話題にするということに関する遺族のやるせない心情は理解できなくもない、というのは僕の考えすぎだろうか。
ちなみに、この日本未公開という事態に対しての批判としてweb上でチラチラ目にしたのは、「日本人は芸術を理解する能力に欠ける」的な言い方。本当にそう言えるのだろうか?そういう一面もあるとして、それでも僕はもっと大きく政治的な問題として扱った方がよいのではないかと思うのだが。芸術の政治的な問題として。芸術が誰かの名誉を毀損する可能性がある状況において、芸術の前衛性を盾に突き進んでもいいのかというのは、一人一人の倫理の問題というよりは、ある集団に共通される倫理の問題だと思う。

というように、作品の内容だけでなく作品のおかれる社会的な立ち位置さえも、ものすごくナイーブなテーマとなっているのです。

まあそれはさておき、作品自体の評価を。映画の評価というのはどうも僕にとっては難しいものなのだが、印象的な話で言うと、なにかアクの強い感じ。映像自体に手が込んでるというのも一つにあるのだろうが、それ以外に例えば僕から見ると、登場人物がみんな暑苦しい。情熱的とかそういう意味ではなくて、みんな一生懸命なわけです。うまく言えないけど。自分の中に内容を持っている人間、というか、キャラクターのある登場人物というか。
昔の人はみんなアクが強かったのかどうかという話はどうでもよくて、これは三島にとっての未来の人間が、また、アメリカ人という日本人にとっての親しい(フリをしている?)他者が、三島の人生と三島の作品との観察から、三島と三島の周辺と三島の作品中の人物を“想像”して描いた登場人物達なのである。
そういうわけで、この映画から見える三島の人物像は比較的わかりやすい。わかりやすいだけに、注意して見るべきだなと思った。これは三島という人物の一つの理解に過ぎないだろうということ。そういう視点さえ持てれば、ストーリーの作り方として、あるいは映像としてまあまあ面白いのではないかと思う。

具体的には、三島由紀夫の人生を、「自決の日」と「回想」と「三島文学作品」の3つの異なる舞台においての出来事に分解し、それぞれクロノロジカルに組み合わせていきながら追跡するというもの。「三島文学作品」とは『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』の三作品のそれぞれの映像化である。この三作品に加え、最期の演説のシーンを軸に全体は4つの章によって構成されている。
3つの異なる舞台は、それぞれ別物の映像作品のように異なる演出のもと映像化されている。例えば、「自決の日」はハンドカメラで撮影され、カラー映像。「回想」は固定カメラで撮影され、白黒映像。「三島文学作品」は明らかな舞台美術風のハリボテ(ちなみにこのハリボテはものすごく精度の高い美しい表現だと思った。スケールを調整したり、対角線を基準にした空間構成など、小ワザの数は半端ないししかもどれも洗練されている)の中での演技(演劇?)が撮影され、コントラスト強めのカラー映像。という具合に、世界観として非常にわかりやすい映像表現。これらが3つの別々の時系列のなかで(少々強引に)関連性を持ちながらストーリーとして組み合わされていく。

わかりやすいストーリーだったのでわかりやすく総括すると、
三島の人生の中の様々な局面での心象が、三島の文学表現に間接的に現れていき、その文学の世界観がさらに三島の心象や行動に影響し、さらに文学を強化していく、というフィードバック的な三島の人生の構造を描き、それが最終的に自決にたどり着く。
このストーリーに沿って言えば、三島の自決は、彼の文学世界が彼自身のリアルな日常に完全に合流した出来事だったのだということになる。つまり三島の自決はある種、文学的である。と。
確かにある意味では納得の展開である。

わかりやすい。
表現もストーリーに対して実に素直。
これはわかりやすい偉人伝だ。
そしてわかりやすいだけに僕は少しもの足りなくもある。
人間とはそんなに単純なものなのか。
もっと断絶があって、もっと両義的な面もあるのではないか。
あるいは僕自身がこのストーリーの中から三島の両義性を読み取れなかっただけなのか。

両義性の表現は物語をわかりにくくしがちである。
だから、もしかしたら両義性の表現は存在しながらも、巧妙に見えにくくされていたのかもしれない。

そう考えていくと、まあ、とりあえず、レアな作品でもあるし、もう一度見てみたくはあります。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-21 19:19 |
吉野水分神社
空間-1
吉野水分神社
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奈良吉野山の寺社群の一角にある神社。
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まずは駐車場からひたすら山道を登る。後で気付いたが、普通に露店とかが建ち並ぶ楽しげなルートからでも行けた。
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外観
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質素な外観ファサード。おそらく、当初はこの面は森に隠れて見えない面だったのだと思う。この面に面して小さな駐車場があり、この駐車場を作るために森が切り開かれ、ファサードが露出したのではないか。という予想。

森に囲まれており、外からはいまいち全体像が掴めない。鳥居をくぐり境内に入る。
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鳥居をくぐったとこ。
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奥の方から鳥居側を振り返る。
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再び鳥居側から奥を見る。

つまり、どうやらこの神社は建物をロノ字型に配し、境内を森から長方形に切り取られたヴォイドとして現出させていた。上の4枚の写真は鳥居から入って時計回りに建物沿いに境内をグルッと一周している。感覚としてはオランダとかドイツとかの街区中心の中庭(オランダでいうホフィエ)に近い感覚。ホフィエは都市の中のヴォイドであったが、水分神社の境内は森の中のヴォイド。今はそうでもないけど、昔とかは深い森の中にポッカリ空いた何もない空間っていうのはそれだけで神聖なんじゃないだろうか。
神社建築の歴史にそれほど造詣があるわけではないけど、神社の起源って、もともと神聖な森の中にヴォイドを作ってその中心に神木を建てるというもの(むしろ逆で神木があってその周りをヴォイドにしたのかもしれない)だっていうのは少し聞いたことがあるような気がする。
つまり、この水分神社はそういうヴォイドの神聖さのようなものを空間性として用いているのではないだろうか。真ん中に立っていた桜が神木なのかどうかは、わかりかねるけど。
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建物の隙間から外部の森を見る。
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森の中に直線的な影が落ちる。

水分神社の名称と関係があるのかわからないが(たぶんあると思うが)、境内には水路がはしっている。行った時にはほとんど水は流れてなかったが。
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森の中にあって、ぽっかりと空が見えるのが気持ちいい。
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門前には小さな集落もある。
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この集落の家の建ち方も少し面白くて、あんまりいい写真がなかったんだけど、上の2枚の写真のように家屋と中庭が断面的に構成されており、さらに前面道路とも断面的な関係性を持って接続している。(道路と軒が接していたり、中庭に2階が面していたり、道路から掘り込んで中庭を形成していたり、その他いろいろ。)特に道路からレベルの下がった中庭は、丸見えなんだけど、いい感じの囲われ感っぽくて、ちょっと楽しそうでした。

中庭というヴォイドを作る構成は水分神社の構成とも少し近い気もしました。
どういう影響関係があったのか、またはそもそも影響関係があったのかは不明ですが、この門前集落以外の吉野山の家にはほとんど中庭の構成は見られませんでした。他は主に道に接して建物が建ち、大きな開口がある、みたいな商業向きのものが多かった。そうであれば、集落によって住む人間の社会的立ち位置が異なっていたとかかもしれません。


空間を語る時には、空間をコンテクストとの関係から見ると同時に、コンテクストを(ある意味で)無視しながら見る、2つの視点が必要なのかな、と最近考えているのだけれども、どうなのでしょう。
それではまた。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-18 01:28 | 空間
空間カテゴリ
空間カテゴリの説明。

僕が体験してきた空間を、写真の言葉(つまりブログで可能な伝達手段)によって記述してみようという試み。

空間をどのように伝えられるか、ひいてはどのように表現できるかを探る実験の一端。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-18 00:12 | 空間
090515土居ゼミ覚書
今年はM2ってことで、修士研究を完成させないといけない。
というわけで、このブログにもゼミ等の覚書を頻繁に書きながら整理していきたい。

ただし、覚書とは言っても、ここではあまりダイレクトに核心には触れたくないので、核心の周辺に引き寄せられてきた様々な興味深い出来事であったり話題を、今度はweb空間においてバラまいて泳がせてみようと思う。
そこからなにか別のことに関連していったり、さらに興味深い発見が「釣り上げ」られるかもしれない。まあ、そこまでパッシブな効果が望めないとしても、少なくとも論文のための研究が、論文の外においても、ある種の空間を生成することは期待できるであろう。

研究を論文の範囲内で収束させないためにどうしたらよいかということを考えていた。
いろんな方法が考えられるが、その方法の一つとして、このようにウェブログの同期と履歴を兼ね備えたシステムを用い、肥大化する核心の一番外っ面から剥がれ落ちる(魅力的な)角質のようなものであったり、強力化する核心の磁力に引き寄せられてくる(魅力的な)鉄くずのようなものの数々を拾い集め、それらを世界中と未来に対して放り投げるということができるのでは、と考えた。そしてこれなら今日にでも始められる。そんで、そういう角質とか鉄くずとかの落っこちた地点からまた新たな空間(場)が生じて、それらが再び僕のもとにいくらか帰ってきてくれたらいいなと思うわけです。


そういうわけで、まずは僕自身の背景を少々。

・学部4年時から石田壽一教授のもと、低地オランダという土地に展開している住環境の形成に関する研究を行っている。その中でも特に近代建築運動と認識されるような、19c後半から20c前半までの建築・都市のプロジェクトの数々を、その構成原理を形態論的な思考に基づき分析するというようなことを行ってきた。

・このような研究に取り組む僕自身のモチベーションはどこにあるか。僕は、「低地オランダの近代建築運動」を一つのプラットフォームとみなし、そこから世界、未来、そして日本の、特に建築・都市を観察したい。そして思考し、制作活動に関連させていきたいということである。

・ちなみに、物事を観察する時に立つプラットフォームは、自身の中に複数あるべきだと考えている。物事をいろんな側面から相対的に観察することが大切だと考えているからだ。物事をすべて客観的に捉えたいというようなこととは少し違う。主観も客観も相対化することが大切だと考えている。

・しかし、同時に、プラットフォームの建設が中途半端であれば、見える物も中途半端でしかないと思っている。つまり、浅い理解しかないものの上に立って物事を語っても、それほどクリティカルになり得ないと思うのである。世の中の物事を全て深く理解すべきと言いたいのではない。むしろ、そういうことは物理的に考えてそう多く達成できるものではないだろう。だからこそ精通しようとするものは注意深く見つける必要がある。と同時に、精通し得る環境を見つけていくことが大切だと思う。
そういうわけで、一貫した枠組みの中での膨大な研究のストックを既に持っていた、そしてある種の固有な言語をもつ集団・環境-空間となっていた石田研究室の中で生活・研究することは、僕自身のプラットフォーム建設活動においてすごく有意義なのではないかと考えたのである。
物事は、ある価値観によらないと表面しか見えない。ある価値観によってでさえ、物事は、一つの切断面から見えるものしか見えない(当然だが)。しかし、切り込んでいかないことには何も始まらないので、まずは自分の価値観(立場)を暫定的であるにせよ、確立する必要があると考えるのである。
これからの長い人生の中で、いろんな価値観に出会うことを期待しているが、この大学で出会える価値観の一つとして、僕は「低地オランダの近代建築運動」を選択したわけです。

・現在は、石田先生の東北大転任に伴い、指導教官は土居義岳教授に替わっている。一方、石田先生にも可能な限り師事しているという状況です。そして体制としては、研究のフィールドや方法は基本的に旧石田研時代のものを引き継ぎつつ、土居先生にも普段から指導を受けるというやり方で相互に了解をしている感じなのです。

・そういうわけで、今期から普段の土居研ゼミに参加することになった。土居研には大学院生が旧石田研を含めて10人ほど所属しているので、3週間に1回くらいの頻度で、研究の進度を参加者全員の前で報告する。僕はこれまでに一度発表を行ったが、対外試合的な雰囲気は否めなかったものの、それが逆に自分の立ち位置を明確にする上で非常にいい刺激であった。それはもちろん、“土居義岳”という人物の優れた思考と教養と、そして経験の豊かさに裏打ちされた体験であったことは言うまでもない。そして同時に自分が一本の芯のようなものを持ち始めてきたことも、議論を有意義にする要因であったはずだ。

・今回は僕自身の研究に関連することではなく、先日参加した土居研ゼミの中で発された、印象的な“土居義岳”語録をいくつか書いて、この記事を総括しよう。(ちなみにこの日僕は発表はしていない。)どれも研究のエスキースの際に土居先生の口からポロッと飛び出す基本的な“アドバイス”や“忠告”、あるいは“疑問”である。
しかしながら、基本的であるが故に、これはどれも彼自身が物事を考える上での本質的な思考のスキームを示しているようで非常に興味深いと思った。そして僕がこの記事で言いたいことは、彼の語録の中に全て包含されるように思うのである。

以下に箇条書き

::マーケティングの成果と建築の本質的な価値は一致し得るのか??(土居090515)
----例えばビルバオのグッゲンハイム美術館のように、観光資源として経済的に大きな価値を獲得した建築は、“建築的”価値を獲得したと言えるか否か。

::思想とは一枚岩なものではないはず。たとえ一人の人物の思想であったとしても。それは多重に重なったレイヤーであり、いくつもの断絶が存在するだろう。(土居090515)

::研究(あるいは論文)は組み立てて作る(構築する)ものである。よって、何と何とがどのように組み立てられているかが見えるべきである。(土居090515)
----例えば、どの文献や資料を用いたかを精密にデータベース化するべき。引用した文章などには、引用元が詳細に註釈されるべき。など。

::文献を読む時には著者自身のことをリサーチすべし。言論とは常に誰かのバイアスがかかっているものである。であれば、バイアスのかかり方を読み手ができるだけ正確に予測せねばならない。(土居090515)
----つまり、一個の言説を理解しても(あるいはどんなにたくさんの言説を理解し得ても)真理や本質というものに出会うことはない。そこには常に著者の著者性が媒介しているはず。そうであれば、言説を読む時には、「何が言われているか」だけではなく「誰が何を言うのか」ということを理解することの方が大切である。
そしてそれに関連して、
::全体性は個々の中に既に存在する。(土居090515)
----少々難しい。しかし例えば、コルビュジェ研究を行う一人の学者の言説はコルビュジェ研究全体の部分でしかないのか?そうではなく、彼自身が既に彼自身の全体性をもってコルビュジェを論ずるわけである。つまり「何について論じられるか」ではなく「誰が何について論じているか」という視点を持つということは、常に様々な水準での全体性に考慮しなければならないということか(?)
全体性は、作家ごと、国ごと、あるいは学校ごとに存在するだろうということはなんとなく身体的には理解できる(気はする)。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-17 23:07 | 修士研究
インプット
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驚くほどアウトプットするものが見当たらない。いや、するべきものはあるのだけれども、する気にならないという感じです。こういう時はひたすらインプットするに限ると思って、耐えるのみです。

田口ランディさんの言葉
「私にとって“聴く”という行為は、相手の前に無条件に自らを投げ出すことだ。聴けば聴くほど私は小さくなる。自分が消え入るほど小さくなったとき、新しいサウンドが時空を越えて響いてくる。それこそが、発見であり、インスピレーションだと私は思っている。…中略…。表現という大きな妄想を支えるためにも、もっと小さな自分になるベクトルを持たないとバランスを失ってしまう。」
by matsumo5402 | 2009-05-13 22:25 | 晴れ
1995年以後レビュー_後日記
こんばんは。
この前デザイニング展に来ていた藤村龍至さんの議論熱にあてられたのか、最近やたら建築や都市を論じたい病です。
ここ最近ずっと扱いたくて、でもなかなか手が出なかった話題があるので、これを機に論じてみようと思います。


僕はちょうど2ヶ月前の3月に、このブログにてある記事を書きました。それは先の藤村龍至さん率いるTEAM ROUND ABOUT編による『1995年以後—次世代建築家の語る現代の都市と建築』のレビューです。
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編

この記事を書いて一番嬉しかったのは、当時宮城県にお住まいのあるブロガーさんから、これらの記事に関しての丁寧かつ刺激的なリアクションを頂いたということでした。
「1995以後」ブックレビュー
↑この記事の中ほどに、僕のレビューに対するレビューがあります。

ほぼ同世代であること、福岡の僕に対して宮城という大変離れた場所に住んでいたこと、同じように地方の大学で勉強されていたこと、自分と同じような問題意識を持っていたこと、自分と少し違う問題意識を持っていたこと、そして議論のための言語をある程度共有していたこと、等、いろいろな部分ですごく感動をしました。

ぜひ、このリアクションに対しては僕からもリアクションを返していきたいなと考えていたのですが、いつのまにか2ヶ月という月日が経っていました。僕たちはまだ若いので、2ヶ月も経てば自分の中での思考内容も方法も、多少なりと変わってしまっていることも十分考えられます。すぐにレスポンスできず、ブログの同期性というものを完全に棒に振ってしまったことには多少後悔もしているのですが、ポジティブに考えるとすると、ブログには同期性と同時に、過去にまで遡ってその人の思考の履歴を探れるという時間の厚みの存在も大きな特徴としてあると思います。こういうのを「〜性」と表せばいいのかちょっとわからないのですが、こうやって過去の思考を蒸し返すというのもまた一興かなと思って、今回書いてみることにしました。

前振りが長くなってしまいましたが、つらつら書いてみます。



まず松本さんの素直にこの本を楽しむというスタンスが新鮮に見えたことに自分としては反省しっきり。
彼が指摘するように自分も批評の対象になるということに多少身構えすぎていたようである。
彼のそのおおらかさにまずは勝手に感謝したい。



どうもありがとうございます(笑)
これは、僕自身、社会学や現代建築史に関する知識とボキャブラリーが明らかに乏しいことがわかっていたので、それをごまかすためにとりあえず自分語りに終始してしまおうということを戦略として考えたのですが、その戦略が功を奏して「おおらか」な印象を与えることができたのかもしれませんね(笑)
実際は非常に稚拙な文章でとても恥ずかしいのです(笑)
(笑)マークを多用しなければ、いたたまれないほどに。



彼の期待する『インターフェイスとしての建築』という言葉にも強い魅力を感じる。
少し気になるのは『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という態度で、実はこの態度は現代においては理解できなくもないのだけれど、やはりそれは深層にたどり着ける態度ではないんじゃないかと思ってしまう。
それこそディズニーランド的なものの再生産をイメージしてしまう。
僕はどちらかというと『表層の肥大化』によって『深層』にタッチしようとする勝矢さんのスタンスのほうに共感を覚える。
もちろん、いずれもかなり抽象度の高い言葉であると思うから、この言葉が本当に意味するところはわからないのだけれど・・・。
ただ見えない力を取り込みながら建築を作っていくという姿勢には強く共感を覚える。(だから多分『深層を騙くらかす』という言葉はちょっと違うんじゃないかな)これには本人も自覚しているようにそこに具体的な戦略が見出せないのはやはりもどかしいし、これは藤村氏らの抱えるもっとも根源的な問題と同様のものであるように思う。



『インターフェイスとしての建築』という命題は今でも結構気に入っている言い方で、僕は今のところ、この命題を模索することには一生を捧げる価値があるのではないかと考えています。なので共感してくれる人がいるということはとても心強いです。

そして問題の、『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』の件ですね。これに関しては僕もあの後何度も反芻し「そうだろう」「いや、そうじゃないかもしれない」というような思考のシーソーゲームを繰り返してきました。

ちょっと整理してみます。

まず、問題意識としてあったのは、現在、「建築家が職能を発揮できる領域は、出来事のほんの上澄みの部分である」というか「深層にまで介入してこられると、非常にわけのわからなくて面倒くさいことを言ってくる空気読まない人種だよ、あいつらは」というように社会的に認識されているようだということ。

このように思われているままでは建築家は何もできないじゃないかと思ったんです。だから最初の段階から表層と深層が同じゴールを目指してパートナーシップを結ぶことができるような状況ができないか、ということを考えていました。

その時に例えばデザイナーズマンションのように深層の方から提示された価値観だけに準じてパートナーシップを結ぶというような状況は悔しいし、その価値観はこれまでの資本経済のなかで形骸化してしまった過去の成功武勇伝に支えられている場合が多いと思うのです。それでは“今、ここ”に立ちはだかる課題を乗り越えることはできないと思うわけです。

しかしながら、表層に携わる人間と深層を操作している人々が、何度も議論を交わして少しずつ信頼関係を築いていくということも、基本的には時間的に物理的に無理な幻想です。(例外的にそういうことを実現できている人達もいる。例えばここで紹介した人達など。しかしながら彼らが都市の骨格や肉付きを操作することは今の社会ではできないだろう。彼らが扱うのはビタミン剤を飲んで体調を整えたらちょっと顔色が良くなるとかそういう範囲の操作。しかしとても重要な存在と活動ではある。)これは藤村さんなんかが日頃から切に訴えている問題点ですね。

そうであれば、はじめから表層を提案する側が、深層の状況を理解し信頼しているというポーズを示し、深層の倫理と価値観の内でそれらを構成する言語や文法を批判的に組み替えたような“ストーリー(うまい話)”を提示することができれば、つまり同じような価値観で議論できるような場を用意できれば、表層を扱う人間がポジティブに深層に介入していくことができるのかな、と考えたわけです。

ここまでが、当時『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という命題に至ったプロセスです。
このようにもういちど整理し直してみると、僕自身の目指すものとしては、勝矢さんのアプローチとは基本的にほぼ一致していると思いました。
なぜ言い方を変えたのかというと、僕は表層を扱う人間が「表層でもできること」だけではなく「表層ではできないこと」にも関わっていけたらいいなあ、という心理というか意気込みの現れだったのだと思います。
ただ、そうなってくると、『ストーリーを肥大化させる』という言い回しは適切ではない気がしました。それはYOSHIDAさんが指摘されているように、確かにディズニーランドであったり忍者村的な環境の出現を予感させると思います。つまり『ストーリーを肥大化させる=ストーリーを一人歩きさせる』ことは表層と深層との距離をむしろ押し広げるものであるように考えられるからです。表層がストーリーとだけしか、あるいは深層がストーリーとだけしか関係を結ばないようになってしまうと、それはすごく怖い現象だと思いました。的確な指摘をありがとうございます。

ではどういう表現をするべきだったのか。
ちょっと今の時点では勝矢さんのように明快な言葉が見つからないのですが、イメージとしてはおそらく、「表層を肥大化させる時に、つまり表層から深層に向かって圧力がかけられる時に、ちょうど良いくらいの割合で表層と深層の力関係がバランスするようになる、表層と深層との境界面(インターフェイス)をデザインしたい。つまりその境界面の浸透圧を調整したい。そしてその浸透圧を調整するものがストーリーである。ストーリーは表層と深層との中間領域として機能する。」ということかな、と今は考えています。もう少し洗練させる必要がありますが…。



それといわゆる郊外化がトータルな視点でみると幸せ(のようなもの)を享受しているという認識は、僕の経験的にはなかなか理解しがたい。
その証拠に僕がかつていた世界(高校までの地方郊外での生活)はテレビやサービス過多の受動的な世界にどっぷりと浸かってしまった本来のコミュニケーションの楽しみや創作の楽しみのない虚構の世界であったから。



なるほど。確かにそのような世界を生み出す郊外化はあまり歓迎したくありません。それらは郊外という環境だけに顕著な世界ではないのかもしれませんが、とても大きな不幸せだと僕も思います。

それと、僕が「郊外化」という単語を用いてしまったことはいささか不適切だったかもしれません。僕があそこで言いたかったのは「見えざる力の運動」のことだったのです。「見えざる力の運動」がもたらす影響によってたくさんの人間が住むところを得、便利さを得、経済的な負担が減り、時間的な余裕ができ、というような点に幸せを見出していたのです。(それこそが郊外化であり「虚構の世界」を生み出す運動であると言われると、そうかもしれないとも思ってしまいますが。)
しかしながら、もともと萎びた農村などからすると隣接する市街地の郊外化(主にローサイド化)は、相当に生活を改善してくれる出来事であったという一方で、YOSHIDAさんのご実家のようにそれによって不利益を被る人々がいるという一面もあるというような状況は、あまり健康的な関係性ではないと思います。僕が不用意に書いてしまった「郊外化が人を幸せにする」などといった内容には、もしかするとお気を悪くされたかもしれません。
「見えざる力の運動」に着目し、それらをコントロールすることで、取り巻く環境に暮らす人々の幸せな関係性を維持しつつ、好ましい環境を作っていくことができたとしたら、理想的だと思います。



以上がレビューのレビューを受けて僕が考えたことです。
なんか、自分の意見の釈明のような体裁になってしまい、あまりいい文章にはなりませんでした。ダラダラと長いし。
やはりブログだけで議論を展開するというのは難しいものだと思った。
でもとりあえず、何はともあれ、いい勉強になりました、ありがとうございます。と、勝手に感謝しておきます。




最後に、全然話が変わるのですが、勝矢さんが社会の価値観が個別化・多様化してきたというように述べていたが、その一方で最近のニュースなどを見ていると建築が世の中の「安全」至上主義の先導役として期待されている感がある。地震などの天災から守ってくれる。犯罪から守ってくれる。不景気から財布を守ってくれる。など、建築は一様に、これらの価値を求められている。(なにも今になって、急に求められ始めたことではないのですが、とかく最近ではそれらは全て建築が責任を負うべき対象となっている。)
つまり、個別化・多様化する価値と普遍化・全体化する価値が併存しているような状況になってきたように思う。
このような状況の中で僕らがどういうアプローチで深層に挑んでいくか、まだまだ考えていかねばならない問題です。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-11 03:50 | 晴れ
bbq
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今日はバーベキューをしようと誘ってもらったはいいものの、
昨日とかずっとブログ書いたりナルトのアニメ見たりで、ずっとパソコン画面凝視し続けていたせいか、なにか目の裏がやたら疲れてて、なんか眠くて寝ててごめんなさい。
片付けのとこらへんのタイミングで行ってみたはいいものの、行ったは行ったで、最初からおればよかったと後悔しました。

それにしてもナルトはやっぱり面白いわ。アニメでは初めて見たけど、3代目の戦いとか、守鶴とガマ親分の戦いらへんの迫力は半端なかったです。

マンガ読みたいー。


あと、両親と妹がゴールデンウィーク中にETC1000円ルールで長崎から大阪まで旅行に行ったらしい。どうせ、渋滞と人混みやろ、気の毒に。と思っていたが、まったく渋滞にも人混みにも当たらなかったらしい。おかしいやろ。どうなっているんだ。あの人達、こういう時にはやたら運がいい。僕はそのDNAは受け継げなかったようです。ゴールデンウィーク、やっぱ疲れるわー
by matsumo5402 | 2009-05-07 00:28 | 晴れ