松本剛志の考えること
by matsumo5402
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読みたい病
漫画が読みたい病です。
今日は嘘喰い11巻の発売日である。でももうちょい我慢する。
あと、最近、ハマってるのはチェーザレ。歴史の調査と考察が半端ない。ストーリーオンリーであれば、このレベルのものはざらにあるかもしれない。でも、漫画として、ものすごい高いレベルのイメージをも同時に提示しているのはなかなかないんじゃないか。特に建築の描写とか素晴らしい。現存する歴史的な建築のイメージを今の状態のまんま用いるのではなく、綿密な調査に基づきつつ、作者なりの歴史解釈を取り入れながら復原した、精度の高いフィクショナルな描写。これは芸術だよ。相当ストイックな仕事ですよ。原作者と作画者がわかれてるからできるかもしれないのだけど、尊敬できるクリエーターですよ。
あと、ヒストリエもついに5巻が発売された。早く買って読みたい。だいぶ前の巻の発売から期間があいてるから、もう一度全部読み返そう。
全部来週やな。ジュンク堂にいかな。ついでに飲みたい。ぷー
by matsumo5402 | 2009-03-18 02:49 | 晴れ
firefox
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マジどうでも良いんやけど、
最近、webブラウザにfirefoxを使ってて、
それで結構動きが良いから気に入ってるんやけど、
一つ不満なのがあって、
なにかというと、
画像の色がsafariより明らかに淡白すぎるということ。
せっかくお気に入りの色を作っても、
ブログにそれをアップするけど、
firefoxで見るとなんか相当淡白。
ここ最近の僕の好みで、
淡白なのと鮮やかなのの微妙なラインを見つけたいってのがあって、
基本淡白なんだけど、微妙な鮮やかさがあって、
メリハリが得られるみたいなのがやりたいのね。
やりたいけど、なかなか微妙で難しいラインで、
完璧なところには全然達してないんだけど、
その微妙なラインに少しでも近づくように頑張ってるのね。
けど、firefoxはそれを無に帰すわけです笑
まあ、そもそもパソコンのディスプレイには個体差があるし、アプリケーションによっても個体差があるし、webブラウザによっても個体差があることもわかったし、やっぱり印刷物にするしかないのか。

そうはいっても、別に写真家になりたいわけではなくて、
せっかく自分のブログに載せる写真だから、
自分の好きな色を使いたいという程度のこだわりだから、
なんというか、なんか、なかなかもどかしいところですよね。

ほんと、どうでもいいですね。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-17 07:09 | 晴れ
ようはパソコンの画面の前からはなれたい
奇跡的に集中力がないです。

さっき書いていた記事も間違って消してしまいました。

まかり間違っても今書いている図面は消したくないです。

幻の記事の内容はSANAAの建築をほめ殺しにする内容だったけどもういいです。

SANAAの建築はかっこいいと思います。それだけです。

それだけの内容でした。一言で言えば。一言で言えるじゃん。

熊野古道なかへち美術館とか鬼石多目的ホールに特に行きたいです。

ほんとそれだけ。一体何をあんなに書いていたんだろう。

ていうかkikiのブログ復活せんかいな。全然関係ないが。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-16 03:22 | 晴れ
白木峰
今日は寒かった。

諫早の白木峰は雪が降ったらしい。

白木峰と言ったら、もうすぐ、建築家の千葉学さんが設計した、子どもの城がオープンするらしい。ちょうど先月、内覧会があってたけどなんやかやで行かなかったから、近いうちに行きたい。実家も近いし。

そんで、誰だか知らない人のだけど、その内覧会に行った人のブログをたまたま読んで、
「こんな山奥に建てて、誰が使うんだろうか。想像できない。」
みたいなことを書いてあった。
確かに山奥っちゃ山奥だから、あるいは頻繁には使われないかもしれない。
まあちょっとフォローすると、この白木峰高原という場所は、周辺市町村の幼稚園保育園児から高校生まで、なんらかの学習活動を繰り広げる場所として結構活躍してる。春には菜の花、秋にはコスモスが咲き誇って、ちょっとしたレジャースポットとしても活躍している。
山奥と言っても、市街地からも案外近いし。

それはいいとして、それに関連して僕が思うのは、
頻繁に、あるいは賑やかに使われない場所や状況にある建築は貧相であっても良いのだろうか。
ということです。

そのブログを書いた人が、そういうことを言いたいわけではないのは、もちろんわかっているのですが、
これは僕が最近よく考えることです。

地方の更に田舎の小さな町とかの施設というのは、たくさんの人間が毎日毎日ワイワイ使うという状況が望めないものもたくさんあります。それでも今の社会のシステムにおいては、エリアごとに均等に散らばるように施設を作る必要があるではないですか。皆が平等に生活するために。

なんだけど、地方の小さな町に、ちょっと立派な建築ができると身分不相応だと言うじゃないですか。町の人も町の外の人も。税金の無駄遣いだと。それでは、貧弱な建築を作れというのか、と僕は思うわけです。それこそ税金の無駄遣いだろうと。

もっとこじんまりとしたのでいいではないか。
と、よくみんな言いますが、小さな町の住民が社会一般的に求められている生活を行おうとすると、こじんまりと収まるわけがない。ある一定の規模はどうしても欲しくなる。だからこれは建築の問題というよりはむしろ、地方の人口規模縮小の問題と、国民総平等志向による生活の均質化の問題の中において語られるべきだと思うのです。

それでも、そのようなハコモノ建築は、建設会社や設計会社や政治家が私腹を肥やすためのものなのだ。なるほどというところで皆納得するわけですが、それは、事実であることは僕もそう思いますが、もちろんそれだけではないだろう、それは物事の一側面でしかないとも思うわけです。そこには住民に確固たる公共の利益を与えようという意思も小さからず働いているはずではないですか。
それでも私腹を肥やす人がいることに対して、それを妬む人がいて、というのは結局、状況に不満足な人がいるからで、みんなが幸せではないという状況であるからで、それは建築を建てたの建てないの以前の問題だと思うのです。
まあ、なんにしても建築という行為は、その辺の難しい問題を浮き彫りにせざるを得ないばかりに、一人で罪を被ることが多いんだと思います。


結局、建築という行為がその辺までどうこうできる力を得るようにするために僕らは頑張らなければいけないのかもしれないけれど。
最初のブログの人が言いたかったのは、この新しい山奥の建物が、社会と建築との間の希望ある可能性を提示するに至っていなかったということなのかもしれません。
でもまあ、そういう話と、建築それ自体の素晴らしさの話とは、ある程度分けて考えることができるだろうから、とりあえず見に行こうと思う。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-15 04:38 | 雲り
沖縄
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学会で沖縄に行きました。
沖縄はなんだかんだ、やっぱり暖かい。福岡に帰ってからますますそう思った。
雨がずっと降ってたけど、要所要所では止んでくれて、まあよかったです。
とりあえず写真だけ。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-10 10:01 | 晴れ
電撃
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無性に、
無性に奴らを見たい

奴らを、

奴らは、
電撃ネットワーク


見たけど,今、youtubeで。
おなじみのあの
BGMが耳から離れない



けども、
やっぱ生やろ
ライブやろ

ライブ
行きたい
写真は去年のsunset live
写真禁止けど、良いかなって思って撮った
チクらんでね



あと全然関係ないけど
久々にGA JAPANを買った。なぜか。
本棚に並べたらちょうど一年前くらいの号が隣に来て、

なんか、今回の号、薄い!
背表紙のフォントも薄さに比例して小さくなっとるよ。
薄い。
たまたまなんやか。
by matsumo5402 | 2009-03-06 04:12 |
1995年以後レビュー_2_自分編
レビュー後半です。
前半はここ
後日記を書きました。090511

ここではこの本を読んで反応した僕自身の考えと、建築と都市に対する立ち位置を少し考えてみました。なので完全に「僕は、僕は、」と言う文章にしてみました。議論に参加すると言うことは、当然ながら僕自身も批評の対象になるのだということを自覚したいと思っています。


まずこの本が話題にしている1995年は僕が10歳の時である。長崎県の諫早という、地方の小規模郊外都市に隣接する農村に暮らしていた。この年は阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった年であるというように、本書でも述べられている。両方とも僕の人生に対して甚大な影響を及ぼした出来事ではない(と僕は思う)。けれども例えば、阪神大震災の起こった日、僕は風邪をひいて学校を休み、家に一人でいた記憶がある。暇なのでテレビをつけるのだが、どのチャンネルも震災のニュースで、ずっと瓦礫の映像がひたすらエンドレスの映像として流れていた。神戸に親戚がいるのだが、その親戚からは家も家族も無事だという連絡を受けて安心してからは、不謹慎ながら何の感動もなくその映像を見ていた記憶がある。一方、地下鉄サリン事件であるが、これは東京で起こった。東京に知り合いはいなかったから、これは始めから“他人事”としてニュースを眺めてたのだが、後日、隣の家のおじちゃんから、「サリン事件が起こった日にちょうど東京に出張に出かけており、事件の起こった地下鉄の一本前の便に乗っていて、一歩間違えば被害者になっていた」という逸話を聞き、急に事件が身近に感じられ、怖くなったという記憶がある。これらの事件で僕は、現実の出来事に対する自分自身の中でのリアルな態度とノンリアルな態度の出現というものを自覚的に経験した。以降僕はある意味で自分が功利主義的であることを(そんな言葉知らなかったけれども)自覚してきた。自分は自分に関わりのある(であろう)ことにのみリアルな態度をとるのだろうと思い、行動してきた。だから例えば地震の時にボランティアに自ら動員されていたたくさんの人間の思考が理解できなかったりした。だがそういう思考が逆に、「自分は社会のどの部分まで影響し影響されているのだろう」、更に転じて、「社会とは何がどのようにどこまで影響し合っているのだろう」という興味に繋がっていったのだと思う。
まず、僕にとっての1995年とは、現在までの自分の社会に対する態度の起点であったことを仮定できると思う。つまり僕にもこの議論に参加する価値と資格が存在するという主張である。

また、僕はあまり詳しくないのだが、社会学的にも1995年は現在を考える上でのキーとなる年号らしく、それは様々な社会的コンテクストがこの年を起点にパラダイムの変化を起こし現在に繋がっているということが、まことしやかに指摘されているからである。これらのパラダイムによって引き起こされた社会、特に都市や建築の状況というものを藤村さんは問題としているようである。
僕はニュータウンなどのいわゆる郊外と呼ばれる場所に暮らした経験はない(厳密にいえば1年程度ある)が、近接する市街地の幹線道路沿いでローサイド商業施設などがボンボン建設され、中心部の商店街があれよあれよと衰退していく様を見てきた体験はある。だから“郊外”というキーワードを聞いた時に、住環境としての“郊外”にはリアリティがないのだが、見えざる力としての“郊外化”には多少リアリティがある。また、地方の郊外と東京の郊外で、住環境の意味合いが変わってくると思うのだが、東京の郊外とは例えば『クレヨンしんちゃん』の春日部(埼玉だけど)のような場所を想像すれば良いのだろうか。それとも大友克洋の『童夢』に登場するような大規模団地のような場所なのか。おそらく両方ともそうなのであろうが、藤村さんが言う「郊外には場所性がない」というように、ないものを想像するのはなかなか難しいものであるが、漫画の世界で想像するとなんとなく感覚がわからないでもない気がする。(それは完全に漫画という他者のイメージから引き受けたものだが。)

長くなったけど、ここまでが僕が“1995年以降”と“郊外”を考える上での前提条件です。

そういう前提で僕がこの本を読んで最も共感したのは、何人かが話していた、“郊外化”を加速させる「見えざる力」あるいは「深層」といったものにどう切り込んでいくか、あるいはどう関わっていくかというスタンスです。僕は“郊外化”というものに対して特にNOは言わないという立場で、なぜならソフトの視点からトータルで見た時に幸せ(のようなもの)を享受している人間の割合が高い場合が多いという気がするからです。そしてなにより、“見えない力”というものに可能性があると思っているからです。
ちなみに、僕が建築に対して期待しているのは、建築が周辺環境と人間とのインターフェイスとして機能するということです。建築によって人間と周辺環境が関連性を持つことが素晴らしいのではないかと考えるからです。というのは、僕自身の前提条件に関わるかもしれませんが、人間は自分と自分以外の“何か”との関係性を認識することでその“何か”の意味や価値を見出すと考えているからです。建築が周辺環境のインターフェイスになることは、同時に周辺環境が建築のインターフェイスになるはずです。こういった建築が増えることで人間がリアルな態度で接する、接しようと思う環境が増すことを期待しています。具体的な方法はまだまだ模索中なので完全に理想論にしか過ぎませんが…。
この本を読んで気付いたのは、藤村さんの言う「場所性」という言葉はなかなか便利なようで、考えてみると僕の建築に対するモチベーションも「場所性」の議論のうちに取り込まれるように感じました。
なので僕の建築の目標も「建築によって場所性を得ること」であると、ここではしたいと思います。「郊外化によって場所性が喪失した」というリアルな問題意識はないので「場所性を取り戻す」と言うのには抵抗がありますが。
話を戻すけど、“見えない力”に興味があるのは、それが大きな力である(と思う)からです。僕は建築が周辺環境の真のインターフェイスになるためには、結局建築とそれに関わるインフラについて考えなければいけないと思っているのですが、インフラを扱うとなると何か大きな力が必要であると思うわけです。それをうまく使いこなしたい。勝矢さんは「表層を肥大化することで深層を浸食したい」と言っていましたが僕は「ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい」笑。“見えない力”をその気にさせるストーリー(市場主義原理と相反せず、さらに魅力的な価値を秘めているもの。松川昌平さんの言う動力になり得るもの。)というものを提案することで、“見えない力”を取り込みながら、建築を作っていけたらいいと考えています。


その他に僕が特に興味深く読んだのは、
長坂常さんと藤原徹平さんのインタビューで、彼らのお金と人間に対する現実的且つ理想的な考え方は、どちらの考え方も新鮮で共感できました。
それと、観念的なレベルで共感するのは永山祐子さんの、「自分はここにいる」という感覚を得たいということ。若干女子学生的な感覚な気もするけど。
あと、田中浩也さんとドミニク・チェンさんのコンピュータによる新しいテクノロジーの可能性で、僕は今までそういうのをわからないなと思って敬遠してたんだけど、実は、建築ができる以上に身体に関わることができるテクノロジーなのかもしれない。というところを垣間見ることができて楽しかった。


インタビューではインタビューイの主張に対して必ず「なぜ」の質問と回答がついて回るので、読者である自分が考えることと彼らの主張の真意とを相対化することが可能になっている。一人の作家像にとまでは行かないまでも、1つ1つの考え方として共感できるものが度々出てくるのが単純に楽しいし嬉しいし、それ故に思考を進めるモチベーションになる。
この本を読んで、自分の思考がほんの少し明確になったようで嬉しい。


とりあえず、以上にしておきます。

後日記を書きました。090511


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-02 01:09 | 晴れ
1995年以後レビュー_1
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『1995年以後』〜次世代建築家の語る現代の都市と建築〜を読んだのでレビューを書く。というのも、著者である藤村龍至さんら(TEAM ROUNDABOUTの皆さん)が企画していた、「自身のブログにレビューを書くという条件で書籍を提供する」というイベントに乗っかってみたからなのですが。

そういうわけで、僕の役割の一つとしてはおそらくこの本の販促を行うことなのですが(笑)、もちろんその真意としては僕らが巻き込まれることのできる「建築や都市や他」に関する「議論」の場を、まさに巻き起こすことに加担したいというところです。とはいっても僕の今のブログの影響力を客観的に眺めてみると、感覚としては、地方のラジオ局がガラス張りの部屋で公開ラジオ収録をやっていて、近所の皆さんがちらほら暖かいまなざしで見てくれる、加えて遠くの知り合い等がラジオ放送としてたまに聞いてくれるといったものであると思うので、僕自身はそういった身近な人にまず働きかけていくところから意識したいと思うわけです。

とまあ、大仰なことを言いますが、とりあえず普通にレビューを書きたいと思います。
ちなみにレビューは二部に分けて書いてみようと思います。前半は本の全体に関する評価。後半は内容に関する僕自身の立場を述べるという構成をとりたいと思います。

まず、前半です。

この本の基本的な構成は、藤村さんを筆頭にTEAM ROUNDABOUT(特に藤村さん)が、1971年以降にこの世に生を受けた32組の建築家に2007年から2008年の間に個別にインタビューを行い、その内容をまさにインタビューの状態のまま紙面に定着させたというものである。
つまり、現在において最もホットな建築家達の熱い主張を、生の声に限りなく近いカタチで僕らが知ることができる本なのである。これを読めば、彼らの言わんとすることの少なくとも一端を垣間見ることができるお得でセンセーショナルな本なのである。
…なのだが、実は僕が一番面白く感じたのは、彼らが自身の明確な主張をひたすら述べる状況が、同時に“藤村龍至”という存在を明らかにしていくということ。どういうことかというと、当然ながら基本的に藤村さんの言説はインタビューの中にしか現れない。しかも藤村さんは常に聞き手であるから、これまた基本的にインタビューイに対する質問と相槌にしか藤村さんは登場してこない。にもかかわらず、僕の頭の中には藤村龍至像というか、藤村さんの言わんとすることがしっかりと筋を持って理解できるわけです。(もちろん個別の内容に関しては疑問な点もあるけれども。論旨ははっきり見えるという意味で。)おそらく藤村さんが自分の土俵から相手を逃さず議論をするから、相手の動き回る様子を見ていると藤村さんの土俵のかたちが暗に見えてくるのでしょう。もちろん直接的に意見を述べる場面もたくさんあるのだが、それは必ず文脈に依存しているという点で、藤村さんのスタンスが直接的に顕在化するというよりは、“暗に”浮かび上がってくるという見方が適切だと思いました。だからこの本から藤村さんの主張を取り出そうとする時に藤村さんの発言だけを抜き出す作業をしてもほとんど意味がないと思うのです。にもかかわらず、あるいはそれゆえに、文脈の中から浮かび上がる藤村像は実にカラフルで存在感が在る。これは僕が豊富なインタビューの羅列を一気に読み干したことによる当然の効果としても理解できるかもしれないが、それでも藤村さんのジャーナリストとしての卓越した対話の技術によらない限りはここまで鮮明な“藤村龍至像”を示すことはできないだろう。
対話の仕方を多いに学べる本である。


と、まあ、このような評価を幾らしたところで藤村さんは喜びはしないだろうけども。
というのは、この本の主題は「藤村龍至のスタンスを明確にする」ということよりは、もう一歩進んで「藤村龍至が抱いている問題意識を多くの人間と共に共有したい」という部分にあると思うからだ。
もう一つ最初に述べた、「たくさんの建築家の考えていることを一気に知ることができる本」ということもこの本の面白いところであるのだが、これもまた、一歩進んで「それらを知ることによって、読者が自分自身の相対的な立ち位置を明確にする」という作業がもっとも大切なところだと思うのです。
何なのかと言うと、議論を行う準備をしましょうということだと思います。極端に言うと「現在の建築界には議論を行う土俵が用意されてないようなので、当面、僕(藤村龍至)の問題意識を土俵にしませんか。そのために皆さん、自分の立ち位置を明確にして頂きたい。」ということだろう。と、僕は考えています。そして意識的にそういう読み方をすべき本だと思うのです。


と、ここまでで読みたくなった人がいたら幸いです。他の人のレビューはここにあります。読みたくなった人は買って読んで下さい(笑)もう一回僕も読み返したいので。そして読んだらこの本片手に僕と話しましょう。
それでは後半に続きます。

後日記を書きました。090511

author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-02 01:04 | 晴れ