松本剛志の考えること
by matsumo5402
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根拠
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僕は根拠のないことを口にすることが苦手というか、あまり好きではないのですが、根拠のわからないモノというのは案外好きなので、完璧に矛盾しているけど、根拠のないモノに根拠を持たせるというようなことを言葉によって可能にしていきたいと思ってるような気がします。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-28 08:32 | 雲り
solar phone concepts
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au design projectの新しいコンセプトモデルsolar phone concepts

新しいつっても半年くらい前の発表らしいけど。
なんというか、こういうデザイン系の話題に疎いのは、どうもいかんなー、と、いつも反省しています。

上の写真は参/MILEの設計したgem

地底深くにひっそりと在り続けた鉱石の中には太陽の光が閉じ込められている

という感じのロマンチックな物語がコンセプトなのだそうです。
物語性と、そこから派生したであろう折りたたみの内側が太陽光電池になっている構成と、鉱石の切断面のような太陽光電池のビジュアルはすごくきれいだなと思いました。ちなみに言うと、キーがパソコンのキーボード形式なのも個人的に好きです。

ただ、実際に持ち歩くならもっとスッキリしたデザインの方がいいなー笑
鉱石がコンセプトだからゴツゴツしてると思うんだけど、なんというか、コンセプトがまんま具象化するより、もっとコンセプトと言うか物語が抽象的にデザインに関係している方がキレイだと思うのだけれども。僕は。どうでしょう。

まあ、コンセプトモデル段階だからこのくらいコテコテの方がわかりやすいのだろうけれども。
もし商品化することになったらもっと洗練されていくことになるんだろうけど、その時は、物語と現実の与件との妥協によって洗練するのではなくて、物語を抽象化することによって現実の与件にすり合せていくように洗練して欲しいです。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-26 22:18 | 雲り
フィクション
「排除の原理とは、原始的とは言わないまでも、非常に単純なものである。それは、それに反対する価値を否定する原理である。これに対して、犠牲の原理は、価値の多様性の存在を認め、そして暗示する。優先権を要求する別の価値にたとえ屈したとしても、犠牲にされたものは、なおも価値であることが認められている。」
--E.H.ゴンブリッチ



例えば、モノを制作あるいは施主等にプレゼンする方法として、「実は“こういうこと”も“ああいうこと”も考えてみたけれども、検討の結果コレになるわけですよ」と、“脱落した”モノと“生き残った”モノとの差異を比較して“生き残った”モノの優位性と客観性を主張する方法があると思う。この場合の“脱落”は“排除”だろうか。それとも“犠牲”だろうか。僕が考えるに、制作者が“脱落した”モノから、どれだけパラレルな価値を見出していようとも、このプロセスは“排除”的であることが多いのではないだろうか。

この方法の中で“排除”的になるであろうものは、例えば、制作過程の“こういうもの”や“ああいうもの”を、条件(施主の希望や法律など)に対して「ここが不具合、あそこが不具合」といったように、(場合によっては、制作者にしてみれば「もし違う条件であれば具合がいいのに」というカタチで価値を見出しながら)脱落させるプロセスであるのではないか。厳密にいえば制作者にとってはある程度“犠牲”的な意味を持つかもしれないが、完成されたモノに対しては特に多様性を発生させない、つまり“排除”でしかないように思う。そして“排除”の完了と共に制作が終了することが多いと思うのです、一般的には。

ではモノに対しての“犠牲”はどのようにしたら生み出すことができるか。おそらく、(一つの有効な手段としては、)<どれも条件に対して不具合ないが相互に比較すると差異のあるいくつかのモノ>を提示することで可能になるのではないだろうか。つまり、“排除”のプロセスを無事経てきた代物をいくつも提示し、選別する。これは“犠牲”的であると言えると思う。

では、“排除”のプロセスの“生き残り”にどのようにしてバリエーションを持たせるか。同時にそれらをどのように選別するか。
僕が考えるのは、仮説(フィクション)を持ち込むことの可能性である。条件(ノンフィクション)によって規定されるものはそれ自体もノンフィクションであり、その状況に対しては普遍を示す(はず)。そこに仮説を持ち込むことによってノンフィクションに基づいたフィクションが生じる。この“フィクションとしてのモノ”は、仮説のバリエーションだけの多様なバリエーションを持つ。価値を比較することができないモノとして、いくつものフィクションを並置するということが重要である。フィクション同士の価値を比較する基準はノンフィクションな世界には存在しないから、いくつもの“フィクションとしてのモノ”を選別する原理自体もフィクションとならざるを得ない。そしてそのフィクションな選別原理にも、多様なバリエーションを持たせることができるだろう。
このような理不尽で迷宮探検的なプロセスこそが、完成したモノ自体に対しても多様な価値を生じさせることにつながるような気がしている。そしてその価値こそが作家性等と言われる部分であるように思うのです。作家性とは作品の雰囲気等ではなくプロセスから生じるものであると考えています。

だから僕が思うのは、例えばコンセプトであったりストーリー、問題設定といった、ものづくり(建築?)用語の部分を極力フィクションとして認識しながら取り扱うようにしたいということ。他者(共同制作者等ではなく施主や法律など)に迎合しなければならない部分を除いては極力フィクションであるというような認識を持ちながら、つまりフィクションの積み重ねとして設計を行うことで、フィクションが絡まり合ったノンフィクションに近い状態というようなものを生み出すということに可能性があるのではないかということです。

建築家の設計というものは多かれ少なかれそういうプロセスなのかもしれないのですが、それが極端な例としては青木淳さんの方法なんかはそうなのではないかという気がしています。あと村上春樹さんとか。建築家ではないけども。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-26 03:39 | 雲り
三角
今日は九大の入試らしい。
もう何年前のことなんやろう。
僕がまだとんこつラーメンを受け付けなかった時代は。
ラーメンが食いたいです。

そんな中、今更ながら僕は三角関数に悩まされています。


三角関係ではないです。



はっぴぃえんどの鈴木さんが大麻で逮捕
なんかテンション下がるなー


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-25 11:29 | 雲り
数字
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最近、数字のことを考えています。

その中の一つは、「数字って、最も身体と直接的な言語なのではないか」ということです。
というふうに言うと当然だろうと思う人も多いかもしれませんが。

とはいうものの、最近の日本の建築家の作品が数字で首尾一貫語られているような状況を見たことがないのです。建築こそは身体に関わる最たるものだと信じている人種であるにもかかわらず。数字はプロポーションを規定するものでプロポーションは物語性の二の次という状況がほとんど。これはよく考えたら結構不思議な現象ではないでしょうか。ひと昔前はどうだったのか、僕はあまり詳しくないのですが、とにかく僕が建築の勉強を始めてからそのような作品は古典の世界と海外の一部の建築家にしか見たことがないのです。西洋が幾何学とパースペクティブの文化であり、東洋が混沌とフラットの文化だからでしょうか。特に日本は見立てによる雰囲気だとかそういう奥ゆかしさを重んじる文化だからでしょうか。そうかもしれません。そうだとしたら、そのような文化の中においてどのように徹頭徹尾、数字によって構築される建築が成立するか、そしてそれがどういう意味を持ち得るかを考えることはなかなか価値のある試みかもしれないと思っているのです。

…と、だいぶん話が飛んでいますが、まず数字がどのように最も身体と直接的かということを証明するのはなかなか難しいことだと思うのですが、例えば経験的な話でいくと、友達の家にいって「普通やねー」とか感想を持った後に、「実は6畳くらいしかないんよ」と言われると、「6畳にしては広い」というような感想に変わるということとか。これはたぶんに福岡と東京とオーストラリアととかでだいぶ印象の変わる話ではあるけれども、とにかく「6畳」という数字は身体にとって不変な言語であるのに対して、「普通」とか「広い」というような、一見“身体的な言語”は実は身体に対してコロコロ変動している。これは“普遍”と“恣意”とかの話をしているのではありません。僕は数字こそが身体から直接派生した言語であって、「広い」「大きい」「多い」なんかは、数字と身体との相関関係から生じた二次的な言語であると思っているのです。そういう意味で数字は身体に対して直接的であると考えるのです。

最近は、「大きなテーブル」とか「小さな部屋」とか、よくわけのわからない曖昧な空間の記述がいきなり出てくるような状況が世の中の建築に目立ちますが、最も身体と直接的な言語である数字を用いて、例えば「5は4より大きい」というような相対化の手続きを踏んでいくことで、「大きい」とか「小さい」とかいう記述が身体と空間に対して意味を持ってくるのではないかと考えています。(さすがに「森のような」とか「海のような」とかいうファンタスティックな記述を数字がカバーすることは難しい気はしますが。)


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-24 00:43 |
卒業設計
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東京に行きたいです。


それはさておき、先日、うちの学校の学部生の卒業設計がようやく終わりを迎えたという話題です。だから写真は一切何の脈絡もありません◎

展示された数々の作品を一通り見て、正直特別感動できたものはなかったけれども、なにか、ここからが始まりだな、そして始める価値があるな、と、個人的に思った作品はいくつかありました。

でも、とりあえず、お疲れさまでした。
上から目線過ぎて、4年生でこれ読んでる人いたら相当イラッとくるところでしょうが、まあ、それをバネにして頑張って欲しいです。
そして、何人かからは、制作段階から何度か相談を受けたりしていて、それに関しては僕自身もものすごく勉強になったという実感があります。相談してくれた人、どうもありがとうございました。
卒業後は、いろいろな道を邁進していくのでしょうが、活躍を期待しています。
そして僕にいつか仕事をまわしたりして下さい◎


それにしても卒業制作の作品というものは、なかなかしぶとくその人のキャラクターを、ある意味で定着させる力が強いものであると思うのですが、僕自身もまだそれを超えることができていないと思います。
僕の卒計に関しては2008年度の近代建築6月号別冊 卒業制作に詳しいのですが、今でも読み返すにつけて、少々恥ずかしかったりします。というのはおそらく、プレゼが不十分であることと、なによりこれは建築なのかと問われると僕自身にも疑問符が浮かぶというところであるのだろうと思っています。僕の場合も、あれはスタートでしかなかったわけです。しかし、僕の考えではなかなか意味のあるスタートであったと思っています。でも、もはや僕はあの作品を詰めていくことに関しては何の興味もわきません。あれは、あの期間に一度完結しているということに意味があると思っているからです。興味があるのは、あのスタートを別のフィールドで再現できるか、いや、再現というと語弊があるけれども、なにかあのスタートの経験が体や頭の動かし方をスムーズにしてくれるか、そしてスタート以降にいけるかというところだと思っています。

と、言いながら、なかなかモノを生み出せない自分と状況に不安を感じ気味ではありますが、これからいくつかのアワードに作品を出せる機会がありそうなので、自分を追い込んでみたいと思います。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-22 01:31 | 晴れ
冷める
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最近好きな色味。すっと熱が引いていくような色味だと思う。

感情が冷めていくような感覚が好きです。冷めることによって、何か、感動とか喜びとかがカタチを得るような気がしています。最近。僕の場合。
冷めるためには当然熱い状態が必要なわけで、なんというか、日本刀を鍛える時もそうするって話を聞いたことあるけど、感情に関しても、熱して冷めての繰り返しをできたらいいなと思っています。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-13 23:45 |
火事
もう一昨日のニュースだけど、OMAが北京に設計したマンダリンホテルが焼失ですよ。

建物ってこんなに燃えるんだな…と、素直に驚いてしまう。そもそも火事なんてそうそうお目にかかる機会はない。でも、実際起こりえる危機なわけで、こういうときに建物は命を奪う凶器になりうるのだと、当たり前のことを改めて感じた。それは設計者が意図してなかろうがそうなるということで、なんだろう、不条理なことって世の中には、いつだっていろいろあるなあ、と思うわけです。

てか、このあと、どうするんだろう。
また新しいホテルが建つのか?同じデザインで?それともOMAが違うアイデアをだすのか?新しい設計者を捜すのか?

火事とか災害や戦争が建築に新たな仕事を与えるのは事実です。昔の誰だったか、有名な建築家が空襲で焼け野原になった東京の風景を見て、「新しい街を作れるぞ」と喜んだ、という話を何かの本で読みましたが、このようなパッと見虫酸の走るような逸話ではあるけれども、僕自身にもどこかでそれに共感する気持ちもあるような気もします。働きだしたら、建築でも何でも、そういう相矛盾するような倫理観と向き合って折り合いをつけていかなければならないんだろうな。そういうのにぶち当たらないうちはまだまだ甘ちゃんと言われても仕方がないのだろうな。と思います。甘ちゃんが悪いとは思いませんが、この世の中で生きていくためには甘チャンのままではダメなんでしょうね。
話が逸れまくりましたが。




…それにしても…これは確実に火事になるだろう…
おいおい、です。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-11 23:42 | 雲り
インターフェイス
口内炎は痛いわ、腹の調子も悪いわ、眠いわ。なんだこれは。いわゆる厄年というものだろうか。
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最近、精神と時の部屋があればいいなとよく思うのです。ないけれども。それにしても「精神と時の部屋」というネーミングはなかなか詩的な雰囲気を醸し出しているけれども、どういう意味なんだろうか。漫画では肉体の鍛錬を行うために使用されているが、「精神と時の部屋」のネーミングからは完全に「肉体」が欠落しています。「時」は止まっている(部屋でどんなに時間が経っても部屋の外の時間は進んでいない)が「肉体」は変化している。では「精神」は?「精神」と「時」を日常との相対関係から切り離したという意図だろうか?「精神」とは何を意味しているのだろうか。「時」が変化しないとすれば「精神」も同時に変化しないのだろうか。「精神」が変化しないというのはどういう状況なのだろうか。わかりませんが、なにかとてもおもしろいネーミングですね。

ちなみに体験として、〆切などを実感したとき、つまり時間を有限のものとして認識することによって、時間に対する仕事量の密度が増すということはよくある気がします。「時」=「精神」という図式にまでは至らないにせよ「時」即ち「精神」によって生じるモノというような言い方をされると、そのようなものかもしれないとも思います。「身体」が「肉体」的なものと「精神」的なものから成るとして、「肉体」的なものの「肉体」性と「精神」的なものの「精神」性というものはある程度独立した存在として相互に関係しあう性質であるのかもしれません。そうすると、やはり「精神」が「肉体」を凌駕する、即ち「時」が「肉体」を凌駕する(あるいはその逆)という現象も不断に起こっているのかもしれません。

んで、そうであれば、その「肉体」と「時」(「精神」)とのバランス、即ち「身体」を調整する何かしらのインターフェイスがやはり大切なのだと思うのです。例えばカレンダーなんかは直接的なインターフェイスですね。そしてドラゴンボールでは「部屋」即ち「空間」がインターフェイスの比喩として用いられているというのが、建築学んでる人間からしたら少し面白い。「精神と時の部屋」において「時」(「精神」)と「肉体」を分離しているものは、機械であるのか魔法であるのか何かしらであるのでしょうが、やはり表現としては空間でないと身体感覚として伝わらないということなのでしょうかね。


ま、何にしても、空間というのはいろんな概念だとか期待を孕んでいるのだと思います。これを全て建築が回収しようというのはおこがましいにも程があるかもしれませんが、少なくとも建築を考えることが幾らか空間を考えることに繋がっているというのは事実だろうと思いますし、そこが建築の最も楽しいところの一つなのだろうなと思っています。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-10 23:38 | 晴れ
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口内炎がくそ痛い
by matsumo5402 | 2009-02-09 19:28 |