松本剛志の考えること
by matsumo5402
カテゴリ:修士研究( 1 )
090515土居ゼミ覚書
今年はM2ってことで、修士研究を完成させないといけない。
というわけで、このブログにもゼミ等の覚書を頻繁に書きながら整理していきたい。

ただし、覚書とは言っても、ここではあまりダイレクトに核心には触れたくないので、核心の周辺に引き寄せられてきた様々な興味深い出来事であったり話題を、今度はweb空間においてバラまいて泳がせてみようと思う。
そこからなにか別のことに関連していったり、さらに興味深い発見が「釣り上げ」られるかもしれない。まあ、そこまでパッシブな効果が望めないとしても、少なくとも論文のための研究が、論文の外においても、ある種の空間を生成することは期待できるであろう。

研究を論文の範囲内で収束させないためにどうしたらよいかということを考えていた。
いろんな方法が考えられるが、その方法の一つとして、このようにウェブログの同期と履歴を兼ね備えたシステムを用い、肥大化する核心の一番外っ面から剥がれ落ちる(魅力的な)角質のようなものであったり、強力化する核心の磁力に引き寄せられてくる(魅力的な)鉄くずのようなものの数々を拾い集め、それらを世界中と未来に対して放り投げるということができるのでは、と考えた。そしてこれなら今日にでも始められる。そんで、そういう角質とか鉄くずとかの落っこちた地点からまた新たな空間(場)が生じて、それらが再び僕のもとにいくらか帰ってきてくれたらいいなと思うわけです。


そういうわけで、まずは僕自身の背景を少々。

・学部4年時から石田壽一教授のもと、低地オランダという土地に展開している住環境の形成に関する研究を行っている。その中でも特に近代建築運動と認識されるような、19c後半から20c前半までの建築・都市のプロジェクトの数々を、その構成原理を形態論的な思考に基づき分析するというようなことを行ってきた。

・このような研究に取り組む僕自身のモチベーションはどこにあるか。僕は、「低地オランダの近代建築運動」を一つのプラットフォームとみなし、そこから世界、未来、そして日本の、特に建築・都市を観察したい。そして思考し、制作活動に関連させていきたいということである。

・ちなみに、物事を観察する時に立つプラットフォームは、自身の中に複数あるべきだと考えている。物事をいろんな側面から相対的に観察することが大切だと考えているからだ。物事をすべて客観的に捉えたいというようなこととは少し違う。主観も客観も相対化することが大切だと考えている。

・しかし、同時に、プラットフォームの建設が中途半端であれば、見える物も中途半端でしかないと思っている。つまり、浅い理解しかないものの上に立って物事を語っても、それほどクリティカルになり得ないと思うのである。世の中の物事を全て深く理解すべきと言いたいのではない。むしろ、そういうことは物理的に考えてそう多く達成できるものではないだろう。だからこそ精通しようとするものは注意深く見つける必要がある。と同時に、精通し得る環境を見つけていくことが大切だと思う。
そういうわけで、一貫した枠組みの中での膨大な研究のストックを既に持っていた、そしてある種の固有な言語をもつ集団・環境-空間となっていた石田研究室の中で生活・研究することは、僕自身のプラットフォーム建設活動においてすごく有意義なのではないかと考えたのである。
物事は、ある価値観によらないと表面しか見えない。ある価値観によってでさえ、物事は、一つの切断面から見えるものしか見えない(当然だが)。しかし、切り込んでいかないことには何も始まらないので、まずは自分の価値観(立場)を暫定的であるにせよ、確立する必要があると考えるのである。
これからの長い人生の中で、いろんな価値観に出会うことを期待しているが、この大学で出会える価値観の一つとして、僕は「低地オランダの近代建築運動」を選択したわけです。

・現在は、石田先生の東北大転任に伴い、指導教官は土居義岳教授に替わっている。一方、石田先生にも可能な限り師事しているという状況です。そして体制としては、研究のフィールドや方法は基本的に旧石田研時代のものを引き継ぎつつ、土居先生にも普段から指導を受けるというやり方で相互に了解をしている感じなのです。

・そういうわけで、今期から普段の土居研ゼミに参加することになった。土居研には大学院生が旧石田研を含めて10人ほど所属しているので、3週間に1回くらいの頻度で、研究の進度を参加者全員の前で報告する。僕はこれまでに一度発表を行ったが、対外試合的な雰囲気は否めなかったものの、それが逆に自分の立ち位置を明確にする上で非常にいい刺激であった。それはもちろん、“土居義岳”という人物の優れた思考と教養と、そして経験の豊かさに裏打ちされた体験であったことは言うまでもない。そして同時に自分が一本の芯のようなものを持ち始めてきたことも、議論を有意義にする要因であったはずだ。

・今回は僕自身の研究に関連することではなく、先日参加した土居研ゼミの中で発された、印象的な“土居義岳”語録をいくつか書いて、この記事を総括しよう。(ちなみにこの日僕は発表はしていない。)どれも研究のエスキースの際に土居先生の口からポロッと飛び出す基本的な“アドバイス”や“忠告”、あるいは“疑問”である。
しかしながら、基本的であるが故に、これはどれも彼自身が物事を考える上での本質的な思考のスキームを示しているようで非常に興味深いと思った。そして僕がこの記事で言いたいことは、彼の語録の中に全て包含されるように思うのである。

以下に箇条書き

::マーケティングの成果と建築の本質的な価値は一致し得るのか??(土居090515)
----例えばビルバオのグッゲンハイム美術館のように、観光資源として経済的に大きな価値を獲得した建築は、“建築的”価値を獲得したと言えるか否か。

::思想とは一枚岩なものではないはず。たとえ一人の人物の思想であったとしても。それは多重に重なったレイヤーであり、いくつもの断絶が存在するだろう。(土居090515)

::研究(あるいは論文)は組み立てて作る(構築する)ものである。よって、何と何とがどのように組み立てられているかが見えるべきである。(土居090515)
----例えば、どの文献や資料を用いたかを精密にデータベース化するべき。引用した文章などには、引用元が詳細に註釈されるべき。など。

::文献を読む時には著者自身のことをリサーチすべし。言論とは常に誰かのバイアスがかかっているものである。であれば、バイアスのかかり方を読み手ができるだけ正確に予測せねばならない。(土居090515)
----つまり、一個の言説を理解しても(あるいはどんなにたくさんの言説を理解し得ても)真理や本質というものに出会うことはない。そこには常に著者の著者性が媒介しているはず。そうであれば、言説を読む時には、「何が言われているか」だけではなく「誰が何を言うのか」ということを理解することの方が大切である。
そしてそれに関連して、
::全体性は個々の中に既に存在する。(土居090515)
----少々難しい。しかし例えば、コルビュジェ研究を行う一人の学者の言説はコルビュジェ研究全体の部分でしかないのか?そうではなく、彼自身が既に彼自身の全体性をもってコルビュジェを論ずるわけである。つまり「何について論じられるか」ではなく「誰が何について論じているか」という視点を持つということは、常に様々な水準での全体性に考慮しなければならないということか(?)
全体性は、作家ごと、国ごと、あるいは学校ごとに存在するだろうということはなんとなく身体的には理解できる(気はする)。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-17 23:07 | 修士研究