松本剛志の考えること
by matsumo5402
カテゴリ:雨( 36 )
自分会議
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これを読む人が注意すべきことは、この文章の仮想敵は筆者である僕自身であって、一般的な何かを批判するものではないということです。


建築を考えてきた僕の短い人生の中で、「建築は、人間とその周辺にある環境との関係を調整するようであるべき」つまり「インターフェイスとしての建築」というのが一つの辿り着いた、というか無理矢理こねくりあげた末の答えだったのだけど、最近は少し違うように思えている。(ちなみに、ここでいう建築は実体としての“建築物”のことであって、“建築的思考”とは明確に区別しておきたい。)

建築が、調整するのか???

僕は最近、むしろ人間が建築とその周辺にある環境との関係を調整する事の方が無限の可能性を有しているような気がしている。

と、いうのは、建築が直接的なインターフェイス装置(エアコンとか防音装置とか映像スクリーン)のように存在することは、とても魅力的に思うのだけど、建築が人間に媚びへつらって、人間のご機嫌取りをする存在であろうとすればするほど、建築の存在意義が逆説的に薄れていくような気がする。そういう意味で、僕の言う「インターフェイスとしての建築」というキャッチフレーズは、あまりにも捻りがないせいで、それが字義通りに扱われた時に悲惨な結末に辿り着きそうな気がしている。僕らは今、一つの建築にではなく都市全体に住んでいて、建築は都市の中のエアコン的存在、あるいは映像スクリーン的存在になっているというのは、とても確かな実感である。でも、そういう社会構造だからこそ、あるいは社会性だからこそ、そこで建築がただ単一のインターフェイス性しか有せないようであれば、それこそ僕らの社会は、そして社会を構成する諸要素は、ことごとく多様な意味を失い続け、ついには字義通りの原理的な、動くブリキ人形的な、あるいはその歯車的存在以上の何物でもなくなると思う。(そして建築が都市のインターフェイスだとしたら、都市は世界のインターフェイスになり得、家具は建築のインターフェイスになり得る。)

そういうわけで、僕はこれから、では建築がどうあるべきで何が大切なのかを考えていく必要がある。

たぶん。ということではあるが、ある水準においては建築が環境と人間の調停者となる一方で、ある水準では建築と環境が互いに独立していて人間がその関係を調停する。後者での人間による調停方法の多様さはそのまま、人間と環境との関わり方の多様さにも反映されると思う。それから、後者において建築と環境とが補完し合うのかといったらそうでもない気がする。もっと、依存の程度に偏りのある関係である。そして前者と後者との立ち位置間の、あるいは建築の社会性(社会でそれがどういう活躍を求められているか)とのズレの中に、人間が建築に関わる余地があるように思います。

つまりは、建築がもっとドシンと無愛想であったら…というようなことを考えています。あるいは建築がどうすれば排他的にならないのか。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-30 17:23 |
ケルダー
珍しい体験をしたので、記録しておく。


研究室が、


水没!



…まではいきませんが、床上浸水しました。笑
昨日の九州山口地方の大雨で。
昨日今日とひたすら掃除でした。そしたら、なんか異常にキレイになってしまいました。浸水は掃除をしろとの啓示だったのかも。

どういう状況だったかというと、一番ひどいときの写真を撮ってない(というか撮る余裕がなかった笑)のだけど、下の写真はだいぶ落ち着いた後の状況。
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隣の研究室の様子だけど、必死で水を掻き出す。うちの研究室も大体同じ様な感じ。
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どういう浸水だったかというと、超概略すると上の様な状況。
うちの研究室は半地下にあるのですが…
あり得ませんね。研究室前のドライエリアに最大時で1mくらいの深さの水が溜まっている光景は恐怖でしたよ。なぜ写真に撮らなかったのか、今になって悔やまれる笑

教員、学生一丸になってあたふた対処しようとしている図は、なかなか珍しいでしょう。

原因については、諸説流れていますが、まあ、あんまりはっきりしないので、ここに書くのは控えます。


単純な反応かもしれないけど、建築設備の大切さを改めて実感した。建築設備技術こそ、人類が自然と対峙する歴史における人間の英知の賜物である。



ちなみにドライエリアは普段はこんなん。ここに水が…コワ
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by matsumo5402 | 2009-07-25 19:30 |
目利き力
ある授業で、講義をしている先生が、
「コンテンツ産業を骨抜きにしないためには、消費者側が目利き力を鍛える必要がある」
的なことを言っていた。

僕もそのとおりだと思う気持ちがある。一方で、
それでは一体、鍛えるとはどういうことかとも思うわけです。

これは実はとても大きな問題だと思います。

コンテンツに対する目利き力。これは情報リテラシーなんかとほぼ一致する概念だと思うのだけれども、
この件に関してはも一度話したけれども、こういうのを鍛えるとなると、メディアに変わって新たな価値観を強要するような、教育の制度が登場する事態を想像してしまう。

これはでたらめな予想ではないと思っていて、現に“ネット右翼”のような人達なんかはその罠にどっぷり浸かりきってしまっているいい(悪い?)例だと思うわけです。どうしても。


やはり“情報リテラシーの鍛え方(教育方法)”をしっかり議論する必要があるように思われる。


とりあえず僕の考え方としては、まず全ての前提として、
『誰もが批判的であれ』です。何かの盲信に頼るという甘い意識が全ての形骸化した制度を作り出します。
ちなみに、「批判」というとネガティブに捉えられがちで、なんか「非難」とか「叱責」とかのことだろうとしか想像力が働かない人がいます(もちろんそういう解釈はあるとして)。そういう人は広辞苑で「批判」を調べてみて下さい。「批判」とはあら探しだけではなくて、可能性を見つけ出す意識を兼ねるべきです。つまり、これからはもっと建設的な「批判」をするようにしましょう。と。「批判」というより「批評」とした方がピンとくるだろうか。でも「批評」とすると、なんとなく発言を伴わなければいけないような感じがしてしまいませんか。「批評」は大切ですが、まずは「批判」的観察です。とくに全てのスピードが速すぎる現代においては。「批評」は評するに値する事柄にだけ重点的に行うといいと思います。
最近では世の中にも建設的な「批判・批評」活動をできている人がたくさんいると思うので、見つけるつど見習いましょう。

そして建設的な「批判」とは「相対的」であるということだと考えています。「相対的」という言い方は、少しわかりにくいかもしれません。あまりよい言葉が浮かばないので仮に「相対的」と言います。なので補足したいことがいくつかあって、それは、ここでいう「相対的」とは、いわゆる「形式的」とは同義ではありません。確かに物事を「相対」化すると、「形式」が発生します。「あれはああで、これはこう」みたいな。この「形式」を、そのまま固定というか定着してしまうと、「形骸化した形式」になるわけで、これがいわゆる「形式的」ということだろうと思います。ではどうするのか。僕の考えとしては、「形式」をたくさん発生させまくるということです。物事をミクロに詳しく「相対的」に観察することで、いろんな水準、いろんな領域での「形式」が発生しまくるはずです。こういうように「形式」を輻輳させまくるというようなイメージだと思います。そういうふうに物事が曖昧な輪郭に分解された時に、ある濃度であったり密度として可能性を見出すというイメージ。そういう「形式のオーバーレイ」としての「相対的」観察。「逆説的」な認識の仕方に近いのかもしれない。

…最後らへん、抽象的でわかりにくくてごめんなさい。でもなんか、この部分はすごく重要なことな気がするので、あえて無理矢理に言語化しました。そのうち徐々に洗練させていきたいと思っています。

まあ、とはいうものの、僕が言ってきたようなことが実現するためには、莫大な情報を日常的に容易に入手し得る環境が必要になりますね。インターネットなどのコンピューター上ではそのような環境の整備はもはや夢ではないけれども、問題は人間の物理的な能力としてどこまで適応できるかということですね。

理想ではあるけど、あんまり想像はできないな。発狂する人とかでてきそう…笑

でもそのくらいの壁に立ち向かわねばならないということでしょう。



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-07-08 04:31 |
長崎2
前回の記事で言ってた長崎の長崎水辺の映像祭というイベントに参加したので、早めに報告。

まあ、個人的に反省点が山ほどあるのだけれども、それはひとまずいいとして、イベントの概要は建築家の隈研吾さんが最初にレクチャーして、オーディエンス(の一部)がそれに反応して議論をしようとするという感じ。

隈さんのレクチャーは、昔のやつから最近までのプロジェクトを“建築や環境の劇場性”という切り口を軸にして展開された。
なぜ劇場という切り口かというと、隈さんは最近稲佐山の中腹にホテルを新しく設計し、それこそ明日とかにはオープニングなのだそうだが、そのホテルとこれまた隈さんの設計の長崎県美術館との位置的な関係を考えた時に、これはまさに劇場の構成ではないかと気付いたそうなのです。どういうことかというと、地図をちょっと見てもらえばすぐわかるんだけど、稲佐山と大波止との間には長崎港という湾が食い込んできてて、それがまさに馬蹄形の都市構造というか地勢構造を持っているのです。隈さんはこれはまさにギリシャやローマのような対面型の劇場ではないかと考えたそうです。広大な東シナ海を、そしてその向こうに展開する世界。これらをステージと見立てた劇場であると。そういうステージを前に、大波止側と稲佐山側とが向かい合いながら演目(世界の情勢)を鑑賞するわけであるが、対面という形式が大切で、対面によって実はオーディエンスは皆、見る者であると同時に見られる者として、二重に演目の中に取り込まれる。そういう場所の持つ関係性をこの二つの建築によって、可能性として引き出せたのだと。

この劇場性の持つ可能性は、奇しくも海や水に近い世界中の都市や土地での他のプロジェクトでも追求されてきたものだったのだ。
グローバル化していく世界の中で、ある切り口をもって相対化した時に長崎の何が見えるか。

そういうことです。

僕がこういう風に書くと抽象的な机上論に聞こえてしまうが、隈さんが語るとあら不思議、なんか実際に何かが起こり始めそうな気がしてくる。ちょっと悔しい。
まあ実際、これも隈さんが言っていたが、稲佐山側は、結構まだ開発の余地が残されている。馬蹄形の劇場都市を考えた時に何ができるかを考えるのは確かにとても有意義な気がする。
とても即物的であるが故に、とても夢に満ちた構想だと思う。僕も大好きな考え方だ。

ただ、こういうものが実際の、もっと人間関係とか歴史とか利権とか、そういうドロドロしたところに分け入っていくため、つまりはこういう構想を長崎であれば長崎の人間が自分達のものとして獲得していくために乗り越えないといけないものは何か。そういうとこらへんを本当は議論したかった。でもなんか舞い上がってしまって、隈さんの構想の、即物的で希望に満ちている点だけを賞賛してしまう発言をしてしまって、後悔。ぐう…

ただ、そういう僕の不甲斐なさを汲んでくれてか(たぶん違うけど)、伊東順二さんの方から、隈さんの建築は未完の建築であるというコメントを頂いた。たぶん一つの建築を未完と捉えられるか否かは、設計者の判断ではなく、施主である公共建築であれば市民の判断によるのだと思う。我々が隈研吾の建築を未完と捉え、使いこなしていく意識を持つようにすることで、隈研吾の建築は市民の地域のパワーを引き出す媒体になるはずだと。隈研吾の建築にはそのポテンシャルがあるんだと。まあ、これも隈研吾礼賛には違いないが、そこに隈研吾と一蓮托生的な覚悟が見えることで、とても力強いコメントだった。

たぶん隈さんが先の問題にこれまでどう立ち向かってきたかという答えは、伊東さんのようなアツい志の(笑)パートナーや協力者を得ることなのかもしれない。という勝手な予想。

あー、聞きたかったなー。チャンスはそのつど逃しちゃいかんなと、身にしみて感じます…



それから、もう一つ議論の中心だった話題としては、簡単に言うと「手に入るモノ、使えるモノだけを扱うことで、最大限の可能性を引き出すべきだ。手に入らないモノを頼ろうとしてもどうしようもない」的な話だったと思う。
この点に関しては至極ごもっとも。
そのことが他者の共感を生むし、実際に影響力を獲得する。
僕もそういう誠実な活動がしていきたい。

ただ、その反面、いや厳密には反面なのかはわからないのだけれども、なんか自分の中にグツグツと何かがある。そういういわゆる誠実さにちょっとネガティブに反応してしまう何かがある。最近アンビバレントという言葉を覚えたけど、そういう感じ(…とはいうものの使い方あってるのか?)。そっちの、今のところ全く言語化できない自分の裏面の何かにも興味があるわけです。

これに関しては今のところ、「とんでもないもの作ってやりたい」。としか言葉になりません笑

でもまだとりあえずは危ない人間ではない(はず)です◎


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-07-02 02:26 |
長崎
明日、長崎水辺の映像祭プレイベントに参加してくる。

友人に誘われてなんとなくおもしろそーやねー、みたいな感じやったけど、なんかホームページみよったらかなり楽しみくなってきたー!

講演会ももちろん楽しみけど、それよりもその周辺の活動のが面白そうやなー、って思って、楽しみー。その周辺の活動みたいのがこのブログからちょっぴり垣間見えてるけど、なんか街に出てのイベントとかをいろいろやってたりしてたりで、なんか爽やかに過激なことをやってのけてるというか、そういうのができちゃう背景にはどんなのがあるんだろう。

僕は全然このような活動のことを今まで知らなくて、僕の耳に入ってくるような長崎のイベントといったら、やっぱり原爆とか出島とかなんとか、そういうある意味で普遍的なあるいは特殊で抽象的で僕たちの手に負えないような“歴史性”の下に行われてるものが多かった気がする。

そういう意味での“地域における歴史性”はすごく大切だと思うんです。僕は。
ただ、そういった“歴史性”に対する僕たちの関わり方があまりにも唐突というか、付け焼き刃的ではないかと日々思っていました。
もっと、僕らとそういう“地域の歴史性”関係付けているものは何かを地道に探っていく、あるいは創っていく努力が必要だろうというわけです。
もっと、歴史とは神聖で絶対的なものだけではなく、そういう水準での歴史もありつつ、もっと身近で僕らに編集可能な歴史もあって、そういう身近な歴史と普遍的な歴史が連続していってるみたいな感じになる地域を目指せたらいいのではないかと思う。
生活と歴史が断絶するのではなくて、もっと生活と歴史が流動的なグラデーションで連続しているみたいな。
ちょっと抽象的な議論に向かってしまってるけど、例えばなんか「あの時あそこは、こげんやったとばい。」「んにゃ、あそこはそげんじゃなくて、あげん感じやったろうが。そげんなっとったとは、向こうのほうばい。」「そげんやったかねー?」みたいな会話ってたぶん日常的にあって、そういうのが生活を作ってるんだと思うんだけど、そういうあいまいな、でもイキイキしたコミュニケーションが歴史に絶対的な“歴史性”とかに抑圧されないようにしなくてはならない。
要は、僕は、歴史こそは、本質的には保守的ではなく、どちらかというと革新的であるべきじゃないかと思うわけです。

僕はそういうことを考えても一向に行動には移しませんが(笑)、今回のイベントのためにまさに奮闘しているteam.SSさんらは、彼ら自身は何を考えながら行動をしているのかはまだわかりませんが、僕の目から見ると自分らが暮らす場(環境)と自分らとの関係を見つけていこう創っていこうという意思を持っているように思える。
まあ、そういうのも明日明らかになるのかな?

ちなみに、最初らへんに、長崎にはろくなイベントがない、みたいなことを言ってしまったけど、そういえば何年か前に長崎さるく博っていうイベントがあってて、このイベントは観光客が地元住民と一緒に街をヒーコラ歩き、住民の思い出話や蘊蓄を聞くという、なんとも泥臭いイベントなんだけど、僕は上に書いたような理由ですごくいいイベントだなーと思った記憶がある。公共の発案にしては(というような言い方は失礼きわまりないけれども…)、とても前衛的でかっこいいです。


それからやっぱり、そういうのの思想的支柱としては、元長崎美術館館長の伊東順二さんの存在は大きいのでは。と勝手に予想しています。僕も彼の言うことには共感する部分も多くて、この宣言文にあるような問題意識には特に共感した。「with you」かよ、とは思ったけど(笑)。こういう人間がいろんな地域から誕生してそれぞれの地域に働きかけるようになっていけば…。地域の可能性はその辺にあるのではないかとさえ思う。


それでは面白かったらまた感想を書きます。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-30 23:56 |
不毛なこと
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今日は家庭教師先のご家族の方と、なぜかメディアの問題についての議論になってしまった。
マスメディアへの信用は徐々に(とっくに?)失墜している。
これからの、インターネットの更なる発展と日常化によって、メディアの個別化が突き進んだ先に、我々は政治への感覚を取り戻し得るのではないかという話。
インターネット時代の情報リテラシーみたいな話は、だいぶ前からずっとあるけれども、いよいよそのことを本気で誰もが考えなくてはいけないのではないか。
大衆の情報リテラシーの欠如を理由にメディアの個別化を懸念していても何も始まらない。
メディアの個別化を前提として大衆の情報リテラシーを鍛えていかなくては。

しかし、情報リテラシーの教育こそが、マスメディアに変わる、新たな制度として出現してしまうのかもしれない。
制度の話はいつまでたっても難しくなる。本質的に不毛な話題だ。

でも最近思うのは、不毛な議論になるような話題の中にこそ、最も大切な、考えるべきことが存在していることが多いのではないかということです。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-23 21:56 |
あれ
この前、西鉄大橋駅界隈にできたあれ
by matsumo5402 | 2009-05-27 23:19 |
Mishima: A Life In Four Chapters
今日は学校で、ある授業に潜入してある映画を見た。
Mishima: A Life In Four Chaptersという映画である。
映画のレビューなんて未だかつて書いたことないけれど、なんかちょっとだけいわく付きの映画だから珍しい経験ってことで、まあ拙い感想文レベルで書いてみようと思う。

この映画の詳細に関してはWikiなんかでも調べれるけれども、まあ簡単に内容を言うと、三島由紀夫の人生を追体験してみようというもの。
あとそれと、製作陣も役者陣もかなり豪華。気合が入っています。

いわく付きというのは、要は日本では公開ができないということ。アメリカと日本の共同製作(1985年←僕の生まれた年)らしいんだけど、アメリカではちゃんと公開された。日本では、さあ公開だ、という時に諸事情により公開ができなくなった。未だにDVDやビデオさえ日本の市場には出回っていない(らしい)。
なぜか。ひとつは三島の遺族による、日本国内での公開への反対があったらしい。反対の理由としては、三島の(ほんの少し)スキャンダラスな性癖が、(これまたほんの少し)描写されていたことによる名誉毀損の訴え、というのが一応の定説である。まあ、そうではなくとも、おそらく現在の日本人にとってできるだけ触れたくない出来事である三島の自決を真っ向から扱った作品であるというのは、それを再び世間のセンセーショナルな話題にするということに関する遺族のやるせない心情は理解できなくもない、というのは僕の考えすぎだろうか。
ちなみに、この日本未公開という事態に対しての批判としてweb上でチラチラ目にしたのは、「日本人は芸術を理解する能力に欠ける」的な言い方。本当にそう言えるのだろうか?そういう一面もあるとして、それでも僕はもっと大きく政治的な問題として扱った方がよいのではないかと思うのだが。芸術の政治的な問題として。芸術が誰かの名誉を毀損する可能性がある状況において、芸術の前衛性を盾に突き進んでもいいのかというのは、一人一人の倫理の問題というよりは、ある集団に共通される倫理の問題だと思う。

というように、作品の内容だけでなく作品のおかれる社会的な立ち位置さえも、ものすごくナイーブなテーマとなっているのです。

まあそれはさておき、作品自体の評価を。映画の評価というのはどうも僕にとっては難しいものなのだが、印象的な話で言うと、なにかアクの強い感じ。映像自体に手が込んでるというのも一つにあるのだろうが、それ以外に例えば僕から見ると、登場人物がみんな暑苦しい。情熱的とかそういう意味ではなくて、みんな一生懸命なわけです。うまく言えないけど。自分の中に内容を持っている人間、というか、キャラクターのある登場人物というか。
昔の人はみんなアクが強かったのかどうかという話はどうでもよくて、これは三島にとっての未来の人間が、また、アメリカ人という日本人にとっての親しい(フリをしている?)他者が、三島の人生と三島の作品との観察から、三島と三島の周辺と三島の作品中の人物を“想像”して描いた登場人物達なのである。
そういうわけで、この映画から見える三島の人物像は比較的わかりやすい。わかりやすいだけに、注意して見るべきだなと思った。これは三島という人物の一つの理解に過ぎないだろうということ。そういう視点さえ持てれば、ストーリーの作り方として、あるいは映像としてまあまあ面白いのではないかと思う。

具体的には、三島由紀夫の人生を、「自決の日」と「回想」と「三島文学作品」の3つの異なる舞台においての出来事に分解し、それぞれクロノロジカルに組み合わせていきながら追跡するというもの。「三島文学作品」とは『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』の三作品のそれぞれの映像化である。この三作品に加え、最期の演説のシーンを軸に全体は4つの章によって構成されている。
3つの異なる舞台は、それぞれ別物の映像作品のように異なる演出のもと映像化されている。例えば、「自決の日」はハンドカメラで撮影され、カラー映像。「回想」は固定カメラで撮影され、白黒映像。「三島文学作品」は明らかな舞台美術風のハリボテ(ちなみにこのハリボテはものすごく精度の高い美しい表現だと思った。スケールを調整したり、対角線を基準にした空間構成など、小ワザの数は半端ないししかもどれも洗練されている)の中での演技(演劇?)が撮影され、コントラスト強めのカラー映像。という具合に、世界観として非常にわかりやすい映像表現。これらが3つの別々の時系列のなかで(少々強引に)関連性を持ちながらストーリーとして組み合わされていく。

わかりやすいストーリーだったのでわかりやすく総括すると、
三島の人生の中の様々な局面での心象が、三島の文学表現に間接的に現れていき、その文学の世界観がさらに三島の心象や行動に影響し、さらに文学を強化していく、というフィードバック的な三島の人生の構造を描き、それが最終的に自決にたどり着く。
このストーリーに沿って言えば、三島の自決は、彼の文学世界が彼自身のリアルな日常に完全に合流した出来事だったのだということになる。つまり三島の自決はある種、文学的である。と。
確かにある意味では納得の展開である。

わかりやすい。
表現もストーリーに対して実に素直。
これはわかりやすい偉人伝だ。
そしてわかりやすいだけに僕は少しもの足りなくもある。
人間とはそんなに単純なものなのか。
もっと断絶があって、もっと両義的な面もあるのではないか。
あるいは僕自身がこのストーリーの中から三島の両義性を読み取れなかっただけなのか。

両義性の表現は物語をわかりにくくしがちである。
だから、もしかしたら両義性の表現は存在しながらも、巧妙に見えにくくされていたのかもしれない。

そう考えていくと、まあ、とりあえず、レアな作品でもあるし、もう一度見てみたくはあります。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-21 19:19 |
電撃
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無性に、
無性に奴らを見たい

奴らを、

奴らは、
電撃ネットワーク


見たけど,今、youtubeで。
おなじみのあの
BGMが耳から離れない



けども、
やっぱ生やろ
ライブやろ

ライブ
行きたい
写真は去年のsunset live
写真禁止けど、良いかなって思って撮った
チクらんでね



あと全然関係ないけど
久々にGA JAPANを買った。なぜか。
本棚に並べたらちょうど一年前くらいの号が隣に来て、

なんか、今回の号、薄い!
背表紙のフォントも薄さに比例して小さくなっとるよ。
薄い。
たまたまなんやか。
by matsumo5402 | 2009-03-06 04:12 |
数字
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最近、数字のことを考えています。

その中の一つは、「数字って、最も身体と直接的な言語なのではないか」ということです。
というふうに言うと当然だろうと思う人も多いかもしれませんが。

とはいうものの、最近の日本の建築家の作品が数字で首尾一貫語られているような状況を見たことがないのです。建築こそは身体に関わる最たるものだと信じている人種であるにもかかわらず。数字はプロポーションを規定するものでプロポーションは物語性の二の次という状況がほとんど。これはよく考えたら結構不思議な現象ではないでしょうか。ひと昔前はどうだったのか、僕はあまり詳しくないのですが、とにかく僕が建築の勉強を始めてからそのような作品は古典の世界と海外の一部の建築家にしか見たことがないのです。西洋が幾何学とパースペクティブの文化であり、東洋が混沌とフラットの文化だからでしょうか。特に日本は見立てによる雰囲気だとかそういう奥ゆかしさを重んじる文化だからでしょうか。そうかもしれません。そうだとしたら、そのような文化の中においてどのように徹頭徹尾、数字によって構築される建築が成立するか、そしてそれがどういう意味を持ち得るかを考えることはなかなか価値のある試みかもしれないと思っているのです。

…と、だいぶん話が飛んでいますが、まず数字がどのように最も身体と直接的かということを証明するのはなかなか難しいことだと思うのですが、例えば経験的な話でいくと、友達の家にいって「普通やねー」とか感想を持った後に、「実は6畳くらいしかないんよ」と言われると、「6畳にしては広い」というような感想に変わるということとか。これはたぶんに福岡と東京とオーストラリアととかでだいぶ印象の変わる話ではあるけれども、とにかく「6畳」という数字は身体にとって不変な言語であるのに対して、「普通」とか「広い」というような、一見“身体的な言語”は実は身体に対してコロコロ変動している。これは“普遍”と“恣意”とかの話をしているのではありません。僕は数字こそが身体から直接派生した言語であって、「広い」「大きい」「多い」なんかは、数字と身体との相関関係から生じた二次的な言語であると思っているのです。そういう意味で数字は身体に対して直接的であると考えるのです。

最近は、「大きなテーブル」とか「小さな部屋」とか、よくわけのわからない曖昧な空間の記述がいきなり出てくるような状況が世の中の建築に目立ちますが、最も身体と直接的な言語である数字を用いて、例えば「5は4より大きい」というような相対化の手続きを踏んでいくことで、「大きい」とか「小さい」とかいう記述が身体と空間に対して意味を持ってくるのではないかと考えています。(さすがに「森のような」とか「海のような」とかいうファンタスティックな記述を数字がカバーすることは難しい気はしますが。)


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-24 00:43 |