松本剛志の考えること
by matsumo5402
カテゴリ:雲り( 60 )
バラ
c0160617_2234729.jpg

今日出会った印象的な言葉。

『星の王子様』の一節らしいんだけど、

「君が君のバラを とても大切に思うのは、そのバラの花のためにたくさん時間を割いたからだよ。
人間っていうのは この大切なことを忘れてしまう。 
面倒を見た相手には、いつまでも責任があるんだ。
守らなきゃいけないんだよ、バラの花との約束をね。」

『星の王子様』って読んだことないんだけど、だからこの言葉の文脈は全然知らないんだけど、この言葉はこの言葉単体として、とてもいい言葉だなと思いました。あるいは勇気をくれる言葉だと思いました。
大切なものというのは出会うというより育てたり創ったりして手に入れていくものなんだろうね。だから例えば僕にとって建築が大切かというとそれだけではなくて、もっと大切なのは建築を含めた僕がずっと考えて育てて創ってきてるであろう“何か”ということになる気がする。人のいう“建築”という言葉は誰かが創った言葉であって、僕も共有してはいるんだけど、その誰かが創った言葉である“建築”に固執する気はさらさらなくて、僕はもっと僕自身がずっと考えて育ててきた“何か”を一番大切にするべきだと思っている。その“何か”は今すぐには言葉にできるものではないけれど、僕自身にはなんとなくわかっているので、地道に地道に綴っていくしかないかなと思っています。そしてこれは自分に関わる全てのことに共通することであって、例えば人付き合いとかでも結局誰かの評判で“その人”を見定めるのではなくて、僕が見てきた“その人”が真実だろうよ、っちゅうね。

ま、そんな感じです。


author::松本剛志
by matsumo5402 | 2009-01-14 22:41 | 雲り
批判することについて
c0160617_2203978.jpg
ヤフーのニュースってページの下の方にユーザーのコメント欄があって、結構面白かったりするんだけど、ちょっと悲しくなるときもある。

例えばこのニュース。そうでもない人の方がもちろん多いんだけど、中に時々、ただ単に「税金の無駄遣いだ」「公務員と大企業だけが甘い汁をすうじゃないか」のような乱暴なコメントをする人がいる。

もちろん、そういう一面もあるかもしれないとしても、その他の側面を全く見ようとせずに、物事を批判するという短絡的な考え方をするのは悲しいことだ。世の中の、名のある批判というものは、総合的な分析の結果として導きだされるものであるだろう。なぜそういう結論に達したのかを理解せずに結論の部分の言葉だけを借りてきて批判を行うのは大人の思考としてとても貧相だと思う。

総合的な分析と仰々しく言うが、もっと簡単なことで、要は批判する対象をしっかり認識しているのかということである。認識するためには尊敬すればいい。最近の日本人はいろんな職業に対して尊敬する気持ちを持っていない人が多いと思うのは僕だけでしょうか。不正とか偽装とか、そういうことはもちろん許されることではないけれど、一部の人間のさらに一側面だけしか見ずに、ある職業の全体を捉えてしまおうという考えの人間が多すぎる気がする。物事を相対化して、“あれ”は“ああ”だけど“これ”は“こう”だよね、と考えないと人付き合いってできないんじゃないかな。

世の中全てのことに尊敬するようになれば、批判をするには痛みが伴うようになる。あるいは責任が生じる。そういう批判になってこそ、意味のある批判になると思っています。

けど確かにネット上のコメントや掲示板のような場所では、相対化している考え方というのが伝わりにくいっていうのも実情なんだと思います。誰が発言しているのかわからないから言葉の裏が見えにくい。というか見えない。読む人はそれこそ“文字通り”の意味しか読み取れない。とても難しい問題ですね。

なのでとりあえず僕はこのブログでいろんなことに対する批判を書いてきたし、これからも書くと思うので、まずは匿名の投稿をやめて実名を公表しようと思いました。これをやることで世の中に対して幾分の影響を与えるかというと限りなくゼロに等しいと思うけれど、まあ、僕自身の気持ちの問題です。誠実さに対する気持ちの問題です。


author::松本剛志
by matsumo5402 | 2009-01-13 22:46 | 雲り
津屋崎に行った
c0160617_23572944.jpg
昨日、友達の調査についていって、津屋崎というところに行った。
久しぶりに海に行った。海はやっぱり好きだ。
あのどこまでもスコーンと抜けた風景を見ているとなにか心が晴れていく感じがする。

同時に僕はこじんまりとした狭い穴蔵のような空間も好きなのですが、両極のような二つの空間イメージが、僕の“良い”と感じるイメージとして両立しているのは不思議だなと思っていました。

津屋崎の街の中は家々がぎゅっと寄り集まって、『穴蔵のような空間』に近い感じの印象だった。街の外はすぐに、どこまでも広がっていく、『海の風景』としての空間だった。
海という厳しい自然を前にギュッとかたまって生きてきた街なんだろうと思った。

そしてここでも両極の二つの空間は共存しています。
むしろ、お互いはお互いを必要とし合いながら共存しているんだと思いました。
広い世界に生きていくためには小さな空間が必要で、小さな空間は広い世界が周りに展開していなければ存在しないかもしれない。
これはある意味でとても当たり前のことなんだけど、僕が思うのは、今、この時代に僕らの周りに広い世界というものは存在するのだろうかということです。存在するとしたら何なのだろうということですね。


まあ、なんか今日はこういう抽象的な気分です◎
c0160617_0395953.jpg
c0160617_0405526.jpg

by matsumo5402 | 2009-01-13 00:41 | 雲り
花金
c0160617_004111.jpg
てか、寒いです
by matsumo5402 | 2009-01-10 02:32 | 雲り
落ち着こう
c0160617_2475622.jpg


なんか、落ち着かん

なんだこれは。
何も手につかんくなってしまった。ひえー。


それはさておき、最近、詩が面白いかも。って気がしてます。ポエムです。
今読んでるのは中原中也です。
何度読んでも何度読んでもほとんど理解できない。共感できている気もするし、まったく共感できていない気もする。けど、すごい魅力的な感情が溢れている気がする。

世の中、共感できないけど、感動するものってたくさんあるような気がしています。
by matsumo5402 | 2009-01-08 04:13 | 雲り
人生24年目
c0160617_237937.jpg
今年も感動できるモノやコトと、たくさん出会っていきたいです。

年男です。健康にも気をつけたいです。
by matsumo5402 | 2009-01-07 02:48 | 雲り
世知辛いねー
c0160617_226119.jpg
あら不思議、一つの楽器で三重奏

これ、いいね。
別に欲しいとは思わないけど(笑)、
焼き餅みたいな、
あるいはクレヨンしんちゃんのたんこぶみたいな、
この、だいぶ気持ち悪くなってしまった形がいいと思います◎


それにしても、ビッグ3、ヤバいですね。
<ビッグ3>政府、公的資金での融資検討 救済法案は廃案に
ハラハラです。
…というかもうダメな気がする。その場しのぎ。時間の問題では。
ちょっと前までは、経済とかいろいろヤバくなっても結局は大丈夫なんやろ、
とか思えてたけど、そんな時代に生きてきたけど、
最近ではそんな楽観は通用しないだろうという覚悟です。
こんなシビアな時代にどうやって生きていこうかと考えだしたら止まらんくなる。
逆に楽しくなっている自分もいるのかも。

なんて言ってられるのも今のうちかもしれませんね。
そのうち笑えないような状況になる可能性だって少なくないだろうし。
というか笑っていたら世の中の全ての人を敵に回すような時代になるんだろうな。

それでもやっぱり、常にどんな状況にあっても、小さな希望でもいいから見つけて、楽しめるような精神を忘れずにいたいです。


なんてことをニュース見ながら考えました。
いろいろ他にも書きたいことあるけど、もうちょいしたらボチボチ消化していこうと思います。
by matsumo5402 | 2008-12-14 03:00 | 雲り
c0160617_2354122.jpg
c0160617_2355930.jpg
つま先がひどく寒くて、つま先から死にそうです。
やっぱり、床暖房って必要。
by matsumo5402 | 2008-12-08 02:38 | 雲り
SANAA×熊本アートポリス
今日は熊本まで遠征して、熊本アートポリス建築展2008の一環で企画されてたSANAAの講演会を聞いてきました。
SANAAに関しては、雑誌やいろんな本の中では、その言説を文章として幾度となく読んではいたのですが、生の声で聞いたのは初めてでした。

人間としての印象は、
まず妹島さんはすごいパワフル。建築を作るということが好きでたまらないんだろうと、思いました。すごく爽やかで元気な気分にさせてくれました。
そして西沢さんは話がとても魅力的でした。作品のプレゼンにはそこまで魅力は感じなかったけど(笑)、フラットな議論になったときの彼の話はすごく丁寧で明解。そしてアドリブが効く。施主に安心感を与えてくれる口調だと思った。
プライベートとか事務所での人間性は知りませんが、今回の講演会でのキャラクターはこういう感じでした。


今回の講演会は「公共建築を考えるシンポジウム」というテーマで、市の職員などとのディスカッションを交えたものでした。

ちなみに、このディスカッションのスタイルはすごく面白いと言うか有意義だなと思いました。
建築家の講演会というと、普通なら議論の相手も建築関係者になりがちで、閉じた言語の中で自分らの理論を展開させていくものが多いと思いと思うんだけど(もちろん、それはそれでとても有意義な議論なんだけど)、今回のように市民の代表としての市の職員さんと建築家が、大勢の観客の前でフラット(実際の力関係はSANAAの方が格段に高い印象だったけど)に議論をするということになると、建築家は建築的な言語を一度、一般的な言語の方に呼び戻す必要があると思います。
もちろん公共建築を多く手がけてきたSANAAなんかの建築家であればそういう類いの議論の経験は設計の段階で多くこなしてきたと思います。
だからむしろ今回有意義だったのは僕のような建築の学生だったのではないでしょうか。というのは、一般的に言われることですが、建築学生は建築の周辺にどのような人間関係が存在しているのかということを具体的なイメージとして認識できていないと思います(これは経験の問題で、仕方のない部分もある)。だから、今回のように建築の周辺の一端を垣間見れたことと、彼らとのコミュニケーションの方法を見れたということはすごく有意義だったと思います。
こういうふうに市民と建築家がもっと歩み寄っていくという幸せな関係をこれからの時代では築いていきたいなと思いました。

講演の内容は普段から語っている内容とそれほど相違はなく、その集大成という感じでした。
一貫していたのは、都市や周辺との関係性への問題意識。彼らはその問題への解答として、建築が都市に対して「開く」ということを提案する。そしてその「開き方」を提案する。開き方の手法として共通して見られるのは「視線の抜け」である。視線の抜けは「隙間」であったり「透明なファサード」「壁のない空間」などによって実現している。
こうして見ていくと、彼らの建築的試行と思考はすでに日本の建築界の中で一般解となっているのではないかと思いました。

もう一つ僕が今回改めて思ったのは、彼らは(僕らも?)建築において、建築物そのもの(モノ)と、建築物の内部あるいは周囲で生じる人々のアクティビティであったりアクシデント(コト)をまさに一体のものとして考え、提案しているということです。そうなってくると、建築家は世の中の誰よりもまず良識的で道徳的な一般市民であるのだなと思いました。そういう意味では、SANAAは(僕らも?)、一昔前の頭でっかちの大建築家達に比べて、市民にとってはまさしく、理解可能で安心できる良きパートナーなのではないでしょうか。

そういえば、ミースなんかも結局、人々の建築の幸福な“使い方”を考えた結果、ユニバーサルスペースに至ったわけですよね。モダニズムっていうのは、その後のポストモダン時代に比べて、変な思想などを介さずに、純粋に建築と人との関係を考えることができていたから基本的に爽やかだと思うんです。SANAAの建築が爽やかなのは、ミース的なあるいはモダニズム的なメンタリティがどこかにあるからかもしれませんね。



来週はピーター・クックが熊本に来ます。英語が理解できるか不安だけど、アーキグラムの本を持って絶対行こうと思っています◎
by matsumo5402 | 2008-11-30 00:29 | 雲り
デフォルト
今月は、塩塚アトリエに行ったり、超バタバタで研究室コンペをやったり、東京に行ったり、卒計巡回展の準備をしたり、学祭だったり(お酒飲んでただけだけど)とかで、残すところあと1週間になってるよ。

すっかり季節は冬です。

そんなこんなで、今月を振り返ると結構面白かった。それぞれのレポートはおいおい書こう(って言いながらいつも書かないけど笑)


唐突ですが、最近よく思うのは、いろいろなことに関する初期設定の重要性と難しさと可能性です。
僕の言う初期設定というのは、伝統とかそういう言葉に近い概念だと思うんだけど、外部の人間から見たらわけがわからないんだけど、ある共同体であったり団体、あるいは個人の中では“なぜか”共有されている、「これは絶対はずせないだろう」というような前提のことです。
“なぜか”という部分が結構大切で、例えば、各地で行われるような祭りなんかは、冷静に考えたら、経済的にもエネルギー的にも相当に無駄な行為なわけです。これは誰しもが一度は考えることではないでしょうか。けど、祭りは“なぜか”現在でもきちんと成立しているわけです。こういうことが、初期設定の存在を示唆していると思います。「祭りが観光資源となり経済的な効果を生む」だとか「祭りが共同体の結束を強める」だとか、そういうフレーズは事実ではあるけれども、単なる結果であって、祭りの本質的なモチベーションにはなり得ないと思うのです。
僕の予想だけど、初期設定というのは、ほとんどが傍から見たら本当にくだらなくてどうでもいいようなモチベーションが本当にたくさんグチャグチャに集積して一つのカタチを獲得している代物だと思うのです。明確な目標のないスタート。だから初期設定の意味を問うのは実際のところ愚だと思うのです。

けど現代人は全てのことに意味や理由を求めずにはいられない。様々な場面で、初期設定の意味が問われてしまう。僕は意味を追求された初期設定は、形骸化し硬直した、ただの強迫観念になってしまうと思うのです。
ちなみに僕は「伝統」という言葉があまり好きではないのですが、それは「伝統」というと、なにか凝り固まった、ある共同体の中の強迫観念に思えて仕方ないからです。これは僕個人の印象に過ぎないのですが、僕は「伝統」という言葉とは区別して使える便利な言葉として「初期設定」を使っていけたらいいなと思ったわけです。

初期設定はもっとフレキシブルであるべきだと思うのです。なんとなく条件が付加されたり削除されたり。長いスパンで見るとカタチは大幅に変化してしまうかもしれないが、節目節目では常に連続しているという感覚。
こういう行為の連続こそが文化だと思うわけです。
ということをウチの大学の学祭を見てて思いました。(ウチの大学の学祭は外部の人間から見たらたぶん異常なのです笑)。
形骸化することなく文化を紡いでいって欲しいな。いろんな事情でどんどん難しくなってると思うけど。


そういう意味では、昨今問題視されているような、明確なマニフェストのない、なんとなく敷地の状況に合わせて設計するような方法の建築家(伝統的な形式を踏襲するだけの建築家を除いて)なんかは、実は誠実な文化の担い手であって、好感を持てる存在だなと思ったりもしています。

ただ、これからは初期設定を共有する共同体が土地に限定されなくなってくるというところが、非常に難しいところだと思うのです。ネットなんかで特に顕著だけど、面と向かって会わなくても不特定多数の人間がある共通認識を持ち得る。これは本当に難しい状況です。初期設定がミックスされ、細分化される。多様化した初期設定に対して是非を問えなくなっている。「僕はこうだと思う」「私はああだと思う」に対して、「世の中いろんな考え方がありますよね」で終わってしまう。

こういう状況の中で、建築をどう考えていけばいいのか、ひいては世の中とどうか関わっていけばいいのか、難しいところだけど、可能性は存分にあると思っています。
by matsumo5402 | 2008-11-24 03:58 | 雲り