松本剛志の考えること
by matsumo5402
カテゴリ:雲り( 60 )
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kor ehaasumic han note
by matsumo5402 | 2009-07-28 02:06 | 雲り
タダと公共
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この前tumblrを始めた。

twitterも始めようかな。

そしてチャリもいい加減そろそろ買おう。がんばって捻出しよう。お金を。

それにしてもwebの世界って、基本お金かからないのがいいよねー

web世界から現実世界にフィードバックがあるとすればその辺の感覚は持ち込めるんじゃないか

そうなると公共空間との関わり方も変わるのでしょう
by matsumo5402 | 2009-07-10 03:38 | 雲り
インターフェイス その2
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最近の興味。

上の写真のような風景を作れたらいいなという思い。このマンホールになぜか水が張っている。なぜか。ぼくはこのマンホールはそこの場所の性質や歴史をほんのちょっぴり垣間見せてくれる、環境と人間とのインターフェイスの一種になっていると思うわけです。

そんな感じ。


こういうのがもっと人間の知恵で作られていったら、人間は環境をもっと楽しむことができるんじゃないかいな。



地域性みたいなのは大切だと思いますよ。

でも何をもって地域性としたいのか。
それも考えずにバカの一つ覚えみたいに誰かの言葉っぽい意味での地域性を「地域性地域性!」と繰り返すような議論にはもううんざりです。

まずはそこから考えることから始めてみたいという思いなのです。


どうなのだろう。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-06-29 02:12 | 雲り
三菱地所アルティアム開館20周年記念展
三菱地所アルティアム開館20周年記念展のオープニングに行ってみてきた。

記念展の参加アーティストは荒木経惟、会田誠、奈良美智、草間彌生、江上計太、袁廣鳴、ジャナイナ・チェッペ、福田里香。

なかでも会田誠さんのジューサーミキサーを生で見れたのがよかった。

美術史的な批評は僕にはあまりできないけれども、僕の個人的感想としては、会田さんの絵画を見る時にいつも思うのは、一人でじっくり見たいということ。笑
この感覚は、マンガで言えばGANTZとかサイコとかを読む時とかにも発生してしまうんですが、というのもそれはまあ単純な感情であって、これらの絵画やマンガって基本的にグロいものやエロいものを題材に描かれる絵が多いから、熟視したり熟読する様子を他人に見られるのには抵抗があるじゃないですか。
けど、相当リアルに丁寧に解像度高く描かれてるし、優れたストーリーもちゃんとあるからどうしてもじっくり見たい。
だから一人で見たいというわけです。

ただ、そういう時でも僕はやはり、「僕はストーリーを見ているんだ」というふうに“自分”に言い聞かせるように鑑賞しています。笑
「この作品の本質はストーリーにあるんだ!」と思い込ませながら。
だから「この作品はストーリーが面白いんよね。しかも加えて絵も結構きれいなんよ。」みたいに評価するわけです。ストーリーがまず第一だというような認識で。
一方で、「とは言ってもやはり自分は絵の方を見たいんではないか」とも思う“自分”もいます。そういう“自分”をできるだけ頭の端っこに追いやりながら、絵を見るわけです。

そこから派生して僕が勝手に確信していることがあって、それは、実のところ会田さんもGANTZの奥さんもサイコの田島さんも、“絵”あるいは“イメージ”を描くために“ストーリー”を作っているというのが根本ではないかと。(まあ、サイコの場合は大塚さんが原作を作っているわけですけど。)
これは逆に言えば“ストーリー”を持つことによって、描きたい“絵”をとことん描けるようになるのではないかということ。
ちなみにここで僕の言う“絵”っていうのは、彼ら画家・漫画家の本能的な欲望のイメージのことです。

そしてこれは全ての人間の表現活動に多かれ少なかれ通低しているんではないかと。(強調しておくけど僕の勝手な確信です。)
いろいろ御託というか“理屈”を並べるけど、結局のところは自分が表現したい“イメージ”があって、質の高い“理屈”を開発するのではないかと。(ついでに言うと、それらの“理屈”がある共同体の中で普遍化する(していく錯覚に陥る)ことで文化が生まれているのではないかと。)
逆に言えば優れた“理屈”であったり“意味”を持つことによって、とことんまで自分の表現をできるのではないかと。(少なくともそうすることで表現をできるようになる人間がいるのではないかと。)
そう確信しているのです。勝手に。

絵画だけではなく、建築でも文芸でも音楽でもそこのところは一緒なのではないかと。
ストーリー(意味)を本質だと思いがちなのは、欲望(イメージ)を表現していることをなるだけ隠したいから。というか、そもそも欲望の言語化は非常に難しい。言語化というのは正当化とも同義だと思っていて、欲望って誰もが共感できるものであるにもかかわらず、なかなか正当性を与えられないものが多い。
これは作者においても鑑賞者においてもある程度同様な反応なのではないかと僕は思ったりしてます。


…だからどうした。って感じですけど笑)、そういうことを最近思うわけです。
隠したいものがあるからこそ、文化があるのではないかと。
そんな壮大なことを思うわけです。


ちなみに、今日のオープニングでは会田さんと奈良さん本人を見ました。2人とも結構普通のおっちゃんでした。人混みに違和感なく紛れていました。
そういえば奈良さんなんかはこの前ニューヨークの地下鉄にペインティングして捕まった(笑)らしいけど、まあ、確かにこれは普通に捕まるやろうな、と思いました笑。オーラが普通すぎ笑。
奈良さんごめんなさい。。まあ、能ある鷹は爪を隠しますからね。
すごく親近感を覚える人達でした、2人とも。
見ただけだけど。



あ、あと、タダでお酒も飲めます。
たぶん普通の会期中も。
入場料もタダでした。
最近タダというワードに敏感に反応してしまいます。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-30 23:24 | 雲り
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.2
前回の投稿ではROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”2日目の昼のイベントに関してのレポートを行った。
この記事では夜のイベントSOUTH JAPAN STUDENTS MEETINGに関するレポートを行います。

■SOUTH JAPAN STUDENTS MEETING
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このイベントは藤村龍至という建築家をネタに議論を行うという主旨。
藤村さんより、かの有名な「批判的工学主義」と「超線形プロセス」、それらの成果である「Building K」のプレゼンテーションが行われた。それに際して、乗り越えるべきものとしての“力なき愛vs愛なき力”、“芸術(メディア)vs工学(エンジニアリング)”、“ランドスケープvsアーキテクチャ”というような、いくつかの対立概念が問題提起された。


会場との議論は、主に論理性と“イマジネーション”との関係を巡る話題であった。ただし、今回の議論で“イマジネーション”という単語はほとんど出てきていない。しかしながら会場は言語化されないが何かしらの共通の価値基準を持って議論を行っているように思えた。その“何か”とは空間を豊かにするための“何か”であり、ここではそれを“イマジネーション”と仮に言語化することにする。

まず僕が気付いたのは、藤村さん以外の会場の人々においては論理性と“イマジネーション”は結びつき難く、一方で恣意性こそが“イマジネーション”を担保するだろう、というような了解が前提としてなされていたことである。
このような了解は、藤村さんが「超線形プロセス」を実践する上でのコツとして提示した「do not think」「do not imagine」「do not look back」といったキーワードに触発され、一気に藤村さんの理詰めなプロセスに対する疑問として噴出した。

それに対して藤村さんの場合、空間設計における“イマジネーション”を、意味を発生させ定着させる構想力であるというような点に見出しているようであった。よって、論理性はイマジネーションと矛盾しないし、むしろ論理的であることによって他者とのコミュニケーションが可能となり、より多くの意味が生じてくるであろうというように考えているようであった。

この対立は“イマジネーション”を暗黙知と形式知のどちらの中に見出そうとしているかという違いであるように考えられる。しかしながらやはりどうしても僕が藤村さんに対して疑問なのは、形式知による“イマジネーション”における言語的な意味の濃密さが、人間のどのような回路を介して空間体験の濃密さに変換されてくるのかということである。この疑問は同時に、僕自身がこれまで空間に関して考えてきたことに対する批判でもあるのだが。


とにもかくにも近代以降の建築家は人々のコミュニケーションを発生させる装置を提案し続けてきた。
モダニズム期に顕著な、コルビュジェやアーキグラムやメタボリズムなどのように大きなビジョン(ゴールイメージ)を示して、そのビジョンを媒介してコミュニケーションを発生させるスタンス。政治的なコミュニケーション。
ポストモダニズム期に顕著な、ヴェンチュ−リなどのように建物の記号性に注目して、それに関する哲学を媒体としてコミュニケーションを発生させるスタンス。文学的なコミュニケーション。
そして現代日本建築で特に顕著であるような、壁や開口などを用いて物理的に人間の行動を制約することでコミュニケーションを発生させるスタンス。日常的なコミュニケーション。
などなど、いろんな水準でのコミュニケーションを発生させる試みを建築家は繰り返してきた。
現代に近づくにつれてコミュニケーションに参加できる敷居は低くなり、無意識的になると同時に、1つの建築プロジェクトが発生させるコミュニケーションに関われる人数は限定されていく。

藤村さんが目指しているのは、
建築ができる以前、計画段階において議論というカタチでコミュニケーションを発生させることで、再び1つの建築プロジェクトから生じるコミュニケーションに関われる人数を拡大しつつ、敏感に意識化させ、しかも敷居は低くしようというところではないだろうか。この部分こそが井手さんを始めとして彼らの同世代の建築家やデザイナーの多くに共通する性質であるように思う。

それに対して僕自身は、このようなスタンスには大変な共感をする一方で、やはり言語と空間体験であったり言語と建築形態であったりを媒介しているものは何なのかいうような抽象的で個別的な思考も大切にしていきたいと考えています。


関連:
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_1日目
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.1



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-05 03:54 | 雲り
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.1
どんたくの2日間は毎年雨が降るというジンクスは、僕が福岡に来てからかなりの確率で当たっている気がします。今日も朝から曇りで雨も降りたくてウズウズしてそうだったけどなんとか持ちこたえてくれた。できれば明日も我慢してほしいものです。

というわけで昨日の続き。 ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”の2日目のレポートです。今日は2本のイベントがありました。DESIGNING STUDENTSとSOUTH JAPAN STUDENTS MEETINGという2つ。
それでは以下にそれぞれのレポートを。


■DESIGNING STUDENTS
福岡周辺で建築や都市を考えている学生がデザイニング展に際して福岡市中央区の大名という地区をフィールドに、「大名の風景を変えるもの」というテーマ設定の下で行った、様々なアクションに関するプレゼンテーション及びそれをネタに井手さんと藤村さんの2人を交えた議論が行われました。
以下にそれぞれのプロジェクトに関するレポート。結構真面目に聞いてたから全部について簡単に書いてみる。読むのしんどかったら一番下の総括だけチェックして下さい。


:::Fukuoka-Daimyo Zakka:::田上雅彦
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普段学生が教材入れなどとして使っているようなプラスチックケース(バッグ?)のデザインを批判的に分析し、“実用性”に対して“ゆとり”を重視するという概念のもと教材入れ(?)ケースを改めてデザインしたという提案。例えばプラスチックに対してフェルト生地など。
また、A3サイズのケースを縦使いすることで、これまでのプラスチックケースに比べて実用性が増すだろうというような提案も見られた。「“実用性”に対して“ゆとり”を」というような言い方をしていたので無意識なのかもしれないが、実用性を批判することで新たな実用性が発見されているのは秀逸だと思う。とにかくプロダクトとしての完成度が高い。IMSにて実際に販売されているらしい。すでに天神の街で何人かこのケースを持ってウロウロする人を見かけた。

「大名の風景を変えるもの」というテーマ設定に対して「大名」の「大名」性を如何に読み取っているのかという質問が藤村さんからあって、それに対して設計者はあまりクリアに答えていなかったように思うが、つまり大名の風景を支配するのはファッションでありトレンドであることと、学生が多いことという前提で、そういったものに介入していく時に、学生なら誰でも持つであろう教材ケースを取りあげ、それ自身の存在を完全否定するのではなく、批評的に改善を図ることでたくさんの人に使ってもらいトレンドを作っていくという捉え方もできるのかなと僕は勝手に思っています。


:::みどりの日JACK!!:::青木 仁敬・江崎 舞・長郷 まどか・渕上 貴代
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みどりの日にあわせて行うイベントの提案であった。この日に街中で、レンズが緑のフィルムでできた紙メガネを配布する。そのメガネをしばらくかけて、外すと、そこには緑の補色であるピンク(赤)色と化した風景が広がりますよという提案。緑に染まった風景を見た後にピンクに染まった風景が見える。みどりはみどりの日に関連しており、ピンクはデザイニング展のテーマカラーに関連している。

人体の仕組みにより生じる補色という関係を媒介することで、風景を変えるというテーマを手がかりに、みどりの日とデザイニング展という異なる出来事を関連付けている。思ったのは、みどりの日に関連したデザイニング展の他の大々的なイベントがあるなどしたら、この緑のメガネのイベントはデザイニング展の中でより強い立ち位置を得たのではないか。広告的な役割として。


:::INTO THE GROUND:::塩井一孝
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彫刻の提案。風景という主題を手がかりにした作品。
作者は風景というものを変える以前にまず風景とは何かということを考え、“風景を見る”ことは目に“見えない気配を感じる”ことと同義ではないかという仮説に至る。つまり風景とは“気配の空間”であると主張する。そこで気配を感じる感覚をデザインするのだと言う。よって作品は気配を感じるための装置であるとも言えるだろう。具体的な作品は、イメージがないのが少しつらいが、一方の面に地面の形状を石工でトレースした4枚のプレートを、地面トレースの面が内側になるように正方形のパイプ状に組み合わせた作品。ただしトレースした地面は大名のものではなく、別の地域の林の中のものであった。これに関しては今はアスファルトの大名の地面もかつては土の地面であったということに対するアイロニーであるというような説明。大名という土地の時間系の中でどのポイントの気配を顕在化させるかということを考えた結果ということだろうか。ちょっとまだ理解しきれていない。

ただ、藤村さんがこの作品は内向的であると指摘していたが、僕はこの作品は制作動機から制作プロセスまでが十分一般的でコミュニケーションできる言語で説明されていたという点において、非常にオープンな性格を持っているのではと思った。


:::そらぞめ:::小川 由香・清水 綾乃・猿木 結子・奥藤 あゆ美・中川 祐介・北川 龍之助・井谷 宇志
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天神地区のきらめき通りというストリートを歩く人々に無差別にピンク色の風船を配布し、同時刻に空に飛ばしてもらうことで、視覚的に上空の風景を変え、地上の人々のアクティビティに影響しようという提案。

井手さんなどから公共空間においてこのようなイベントを成立させ得た、イベントセッティングの力を評価されていた。

風船ネタにはどうしてもサイドストーリーを期待してしまう。例えばありがちだけど、風船の中に花の種が入っていて、風船がどこかの地面に落ちた後にそこに一輪の花が咲く。大名の風景をほんの一瞬だけ強烈に変えた後にどこか知らない場所の風景をささやかに演出する。みいたな。ちょっと安っぽいストーリーでごめんなさい。


:::彩:::小金丸和晃
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街歩きをする時の「いろいろなものとの出会い」という経験を「との出会い」という経験とオーバーラップする(たぶん…)。これは土居義岳さんがその著書において言うような「言語から形態への向こう見ずののジャンプ」というようなアプローチとして批評できる…気がするけど、プレゼンではモノ自体の説明がなく、よく理解していません。ごめんなさい。機会があれば詳しく聞きたいです。


:::大きなスカート:::今林 寛晃・橋本 薫
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衣服であるスカートを等比拡大して、人間が潜り込めるスケールの空間をスカートの下に作るというプロジェクト。作者は建築と衣服のそれぞれの専門家であり、異なる領域のデザインが互いに歩み寄った時に何が生まれるかという実験的なプロジェクトであった。建築と衣服との関係を巡る議論や作品はこれまでにもたくさんあるが、この提案のように衣服がこれまでの衣服として機能しなくなるところで衣服と建築の調停を行ったということをやった作品はなかなかないような気がする。

ちなみにスカートの中にはしっかりとパンツも装備されており、スカートの下から(神聖なる)パンツを覗き込む行為が、ズントーの教会のような空間で頭上から挿し込む(神聖なる)光を見上げる行為と類似しているというようなプレゼンテーションに笑えた。

この先の展望として何が見えているのかに興味があります。


:::foundSCAPE:::井ノ口 洪太/福口 朋子
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風景を見る際の枠組み(制度)を提案し、それに基づいて不特定多数の人々に風景を観察&報告してもらうイベント。報告はその枠組みを用いた写真によって行われ、報告された写真は制作者によって一枚の壁面にランダムに貼り出される。貼り出された写真群をヌラッと一望することによって、他者の風景を共有することができる装置になる。
具体的にはハガキサイズのプレートの中に穿たれた正方形の穴によって目の前の風景をトリミングしながら新鮮と感じる“絵”を探し、見つけたらカメラにおさめてみようという手法で写真を収集する。

共通の枠組みの中での表現にこそ、差異や類似が明確になり、コミュニケーションが生じるだろうというアプローチにはすごく共感する。

勝手な提案であるが、この試みに成果を見出せたあかつきには、次のステップとしてまた別の枠組みを用意して同じようなイベントを開催するなどはどうだろうか。自分と他者あるいは他者と他者の枠組みの使い方を相対化することが今回可能になったと思うが、それに加えて枠組み(制度)そのものの使われ方をも相対化することができたらまた面白い議論が生まれるような気がしています。


:::fowerpod men:::天野将孝・中橋裕介
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植木鉢の形をしたかぶり物を頭に被って、大名の街を練り歩くという提案。かぶってる人間はかぶり物の穴からの風景に視点が固定されることで見える風景を変えられる。かぶってる人間を見る側は異質な様相の人間の出現によって風景の見方が変わる。ということだろうか。

なぜ植木鉢だったのかという問いに対しては、自然の少ない大名地区に人間が植物的な存在として街を潤す(?)といったようなアイロニーを含んでいる。というような言い方をしていたが、なにか一貫性がないような気も…。
この作品といい、『みどりの日JACK!!』といい『INTO THE GROUND』といい、なにかデザイニング展の共通のキーワードとしてみどりとか自然とか植物とかいうものがあったのだろうか。ちょっと疑問なところ。



:::まとめ:::
全部書いてみたら予想以上に疲れた(笑)


藤村さんがこれらの作品をいろいろな水準でカテゴライズしながら分析を行っていたが、とくにメディア派かサイト派かというカテゴライズと、サイト派よりメディア派の提案の方が多いのではという分析が興味深かった。

今回のプロジェクトは全て実際のアクションまで至ることを前提としていたようなので、単純に考えてサイトに直接手を加えるよりはメディアをちょこっと操作してみるアプローチの方が、今の時代においてはお金も労力も圧倒的に省エネであるという背景はまず指摘できるとは思う。
しかし、そういう背景とは別の背景として、僕らがいわゆるメディアとそこに流れる情報の中にこそ自分たちにインパクトを与える空間が広がっていることを肌身を持って無意識的にしろ切に感じている状況を指摘できると考えている。僕らは建築を学びながら、実は建築を実際に体験する経験よりも何十倍もの量の空間に関する情報をネットや本の情報から日々得ている。メディアで伝達可能な情報だけで僕らは空間を面白いとか面白くないとか判断したりもする。とにかく僕らはメディアに希望を抱いているのだと思うのです。

言いたいことは、藤村さんから「なんでサイト派よりメディア派の方が多いんだよ。」「建築家としてそれでいいのか」(とまでは言ってないけど)、みたいに批判された時に、じゃあ今度からはメディアよりもサイトへのアプローチの方を重視しようとかなったら面白くないということ。僕らは(と言って、プロジェクトに関わってもないのに勝手に自分を含めてすみませんが)、じゃあなんでメディア派なのか、メディア派だとしてじゃあメディア派の視座から実際のフィールドを眺めた時にどういう関わり方ができるか、あるいはメディア派とサイト派との間にもっとクリティカルなカテゴリを用意できるんじゃないか、などということをむしろ考えた方が面白い気がしています。コミュニケーションも成立する気がします。(超線形プロセスとも共通してたりするかも?)そしてそれこそが、分節されたものを統合していくということであると思います。
…ってまあ、当たり前のことですけどね。

そういうわけで続きはまた。


関連:
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_1日目



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-04 04:05 | 雲り
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書くことがない
これはずっと前に大分に行った時に塩塚さんの車で通り過ぎた藤本さんのhouse-Nで、写メで1枚だけ撮らせてもらったけどアホみたいにブレてしまってたという写真でお蔵入りにしてたやつだけど、パソコンで見たら意外に陰影がきれいに写ってる気がした。人様のお宅だけどまあ、これだけわけが分からんかったら載せてもいいかなと思って載せてみた。
by matsumo5402 | 2009-04-17 04:13 | 雲り
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オランダに行きたい欲が高まってきたす
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やっぱロッテルダムとかなんかかっこいいよねー
どうしてもなんかこういうダウンタウン的というかストリート系な文化ってちょっと憧れたりするんよね。田舎の生まれなので。
しかもオランダそういう文化も洗練されてるっていうかね。なんかクールな感じだよね。あとドライというかね。
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つって、一回しか行ったことないんだけどね。わかったこと言うなってね。さ、現実逃避終わりー
by matsumo5402 | 2009-04-14 23:25 | 雲り
浮き島
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昨日大好きなyahoo!ニュースで見つけた写真。中国の江蘇省興化市ってとこの菜の花畑らしいんだけど、なんか、オランダ?これ。いや、でもなんか微妙に感じが違う。ポルダーのちょっとスケールのかわいい版みたいな小さな浮き島の群れ。それがどこまでも続いてる。地平(?)線が見えてる。なんか最近よく見る石上純也さんのドローイングの中に似たようなのがあったような気もする。あれは具体的だけど極端で一見すると荒唐無稽なイメージを提示することで僕らの空間に対する思考の幅を広げようとする、ある種のユートピア的な提案だと僕は理解してるけど(本人に言わせたら本気で反論されるだろうけど)。でもこっちのはリアルな環境だね。こういうのを見るとやっぱりワクワクせざるを得ない。想像の範囲を超えたと思ったイメージが、すでに誰かの日常として存在していたという事実。
てかこの風景って結構有名だったりするんかいな。僕は初めて見たよ。
てなわけでググってみたけど、とりあえず、航空写真で更にビビった。
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一見、平野ですね。更にアップ。
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おー。浮き島群の一部が街になってる。更に拡大。
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街のある島の周縁には小さな船がいっぱい並んでる。なるほどこれで畑の島にったり他の街に行ったりするんだろうな。
なんかFFとかドラゴンクエストとかで出てきそうな地図だな。こんな環境が実際にあるとは。これが相当な面積で展開されているようです。
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すごいなー
全然知らなかった。
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なんか集落が畑を分解していってるみたいな感じね。ジジジッて感じ。ウイルスとかモザイクとかのイメージ。こういうのはそそられます。
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これとか最初の菜の花の小島に近いスケールかな
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どういう歴史でどういう文化なのかみたいなのはまだちょっと詳しく調べれてないんだけど、ここによると農業が盛んらしくて、こことかこことかによると、相当先端的なことが行われている様子。こういうの見ると、やっぱりいわゆる極端にサイトスペシフィックなものってのがアヴァンギャルドに繋がるようなことっていうのは、やっぱりあるんだなーとか思ってしまう。では必ずしもそうではない日本に暮らす僕らは何を目指せばいいのだろう。と少し思ったりします。まあでも例えば、スイス的なものもオランダ的なものもどちらでも結構ありだろうというようなメンタリティが成立し得る環境という意味での日本の特性ってのは案外珍しかったりするのかもね。

てかgoogleマップって楽しいね


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-04-13 23:14 | 雲り
白木峰
今日は寒かった。

諫早の白木峰は雪が降ったらしい。

白木峰と言ったら、もうすぐ、建築家の千葉学さんが設計した、子どもの城がオープンするらしい。ちょうど先月、内覧会があってたけどなんやかやで行かなかったから、近いうちに行きたい。実家も近いし。

そんで、誰だか知らない人のだけど、その内覧会に行った人のブログをたまたま読んで、
「こんな山奥に建てて、誰が使うんだろうか。想像できない。」
みたいなことを書いてあった。
確かに山奥っちゃ山奥だから、あるいは頻繁には使われないかもしれない。
まあちょっとフォローすると、この白木峰高原という場所は、周辺市町村の幼稚園保育園児から高校生まで、なんらかの学習活動を繰り広げる場所として結構活躍してる。春には菜の花、秋にはコスモスが咲き誇って、ちょっとしたレジャースポットとしても活躍している。
山奥と言っても、市街地からも案外近いし。

それはいいとして、それに関連して僕が思うのは、
頻繁に、あるいは賑やかに使われない場所や状況にある建築は貧相であっても良いのだろうか。
ということです。

そのブログを書いた人が、そういうことを言いたいわけではないのは、もちろんわかっているのですが、
これは僕が最近よく考えることです。

地方の更に田舎の小さな町とかの施設というのは、たくさんの人間が毎日毎日ワイワイ使うという状況が望めないものもたくさんあります。それでも今の社会のシステムにおいては、エリアごとに均等に散らばるように施設を作る必要があるではないですか。皆が平等に生活するために。

なんだけど、地方の小さな町に、ちょっと立派な建築ができると身分不相応だと言うじゃないですか。町の人も町の外の人も。税金の無駄遣いだと。それでは、貧弱な建築を作れというのか、と僕は思うわけです。それこそ税金の無駄遣いだろうと。

もっとこじんまりとしたのでいいではないか。
と、よくみんな言いますが、小さな町の住民が社会一般的に求められている生活を行おうとすると、こじんまりと収まるわけがない。ある一定の規模はどうしても欲しくなる。だからこれは建築の問題というよりはむしろ、地方の人口規模縮小の問題と、国民総平等志向による生活の均質化の問題の中において語られるべきだと思うのです。

それでも、そのようなハコモノ建築は、建設会社や設計会社や政治家が私腹を肥やすためのものなのだ。なるほどというところで皆納得するわけですが、それは、事実であることは僕もそう思いますが、もちろんそれだけではないだろう、それは物事の一側面でしかないとも思うわけです。そこには住民に確固たる公共の利益を与えようという意思も小さからず働いているはずではないですか。
それでも私腹を肥やす人がいることに対して、それを妬む人がいて、というのは結局、状況に不満足な人がいるからで、みんなが幸せではないという状況であるからで、それは建築を建てたの建てないの以前の問題だと思うのです。
まあ、なんにしても建築という行為は、その辺の難しい問題を浮き彫りにせざるを得ないばかりに、一人で罪を被ることが多いんだと思います。


結局、建築という行為がその辺までどうこうできる力を得るようにするために僕らは頑張らなければいけないのかもしれないけれど。
最初のブログの人が言いたかったのは、この新しい山奥の建物が、社会と建築との間の希望ある可能性を提示するに至っていなかったということなのかもしれません。
でもまあ、そういう話と、建築それ自体の素晴らしさの話とは、ある程度分けて考えることができるだろうから、とりあえず見に行こうと思う。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-03-15 04:38 | 雲り