松本剛志の考えること
by matsumo5402
カテゴリ:晴れ( 118 )
マンガ
井上雄彦 最後のマンガ展に行った。
この展示会に関してはネタバレすると悲しむ人もいると思うので特には語りませんが、井上雄彦は、実に硬派で正統な漫画職人という感じがしました。マンガの表現技法を極めまくることで、マンガの可能性をマンガ以外に拡張しようとしている気がする。今回は例えば空間へ。
逆に例えば、元はマンガ以外の技法であったものを積極的に取り込むことでマンガ表現自体の可能性を拡張しようとするものもあると思う。例えばGANTZの奧浩哉とか。
どちらかというと僕自身は後者の方に共感するところではあるけど、でも井上さんの試みにもすごく期待しています。井上マンガ好きやし。


それから、こち亀がドラマ化するそうです。両津役は慎吾ちゃん。他のキャストが気になる…
by matsumo5402 | 2009-06-02 01:28 | 晴れ
大学の夜中
こんな夜中なのに今日のキャンパスは賑やかだ。
笑い声がする。
なんか、いいことやと思う。

もちろん夜中に起きて騒いでるのがいいこと、というわけではなくて。
むしろ、近隣に迷惑になるような騒ぎ方であれば、当事者が責任を持って鎮めるべきだとは思うし、
夜更かしは単純に考えて健康によいとはあまり言えない。

何がいいかというと、何といえばいいのだろう、
学生の“自由”な活動を、ある程度容認している大学の性格というか気質というか。
あとそれと、比較的恵まれたキャンパスの環境(立地とか敷地の大きさとか建物の配置とか)というのもあるかな。
そしてそれらに自主的に、あるいは自分の責任で関わっている学生の存在というか。

ただまあ、僕が入学したての頃に比べると、少しずつ規制が厳しくなってきているのは否めない。体制にしても環境にしても。

それでも大学は、僕が主体的に関わることのできる、唯一の公共施設である。今のところ。

それを「授業料を払っている見返りだ」という言い方とか考え方はもったいない。
僕らがサービスを受けるだけの立場(つまり自分らには責任がないという立場)に回ってしまうのはすごくもったいない。
僕らが一方的に学校にサービスを期待するようであれば、学校は一般的で常識的な、あるいは形式的な価値観において質の高いサービスを提供するために規制を強化するだけだと思う。
僕らはただそれを傍観することしかできない。

それは大きく言うと、今の僕らと日本政府との関係にも同じようなことが言える(税金を払ってるんだから政府が全部なんとかしろ的な)かもしれないけど、
とにかく自分の責任を放棄することは、つまり相手の言い分に全て従わなければいけないことを意味していると思う。

そういう意味で、まだ僕らに幾分かの責任を持たせてくれている大学は、ある意味で社会性に優れていると言えるのではないか。(他の大学の状況はよくわからないけど。)
よく、「大学でやってることは社会に出て通用しないんだから、大学には社会性のかけらもない」、というようなことが言われるが、現状の社会に適応できるか否かだけで社会性の優劣を問われることにはとても疑問である。(もちろん、意識の低さ故に、社会性に劣る、というか人間性に劣るような人物が大学にいないわけではないかもしれないが。
そういう人間には、社会とは、社会性とは、を考えることをしてほしい。

少なくとも、社会に対する責任を放棄することが社会性である、ということだけは絶対にあり得ない。

と、僕は思いたいです。

なんか、そう考えると、大学に対して僕らは何かやるべきだと思えてきた。
いや、「やるべき」という言い方はおかしいな。
何か「やってもいい」と思えてきた。
自分らの責任で。
まあ、思えてきたけど、面倒いからたぶんやらんけど。

たぶん僕も社会性はそんなない。
少なくとも協調性はほぼない笑

まあ、でも、変わらんといけん、とは思わないでもない。


あ、もう静かになりました。帰ろ。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-24 02:36 | 晴れ
インプット
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驚くほどアウトプットするものが見当たらない。いや、するべきものはあるのだけれども、する気にならないという感じです。こういう時はひたすらインプットするに限ると思って、耐えるのみです。

田口ランディさんの言葉
「私にとって“聴く”という行為は、相手の前に無条件に自らを投げ出すことだ。聴けば聴くほど私は小さくなる。自分が消え入るほど小さくなったとき、新しいサウンドが時空を越えて響いてくる。それこそが、発見であり、インスピレーションだと私は思っている。…中略…。表現という大きな妄想を支えるためにも、もっと小さな自分になるベクトルを持たないとバランスを失ってしまう。」
by matsumo5402 | 2009-05-13 22:25 | 晴れ
1995年以後レビュー_後日記
こんばんは。
この前デザイニング展に来ていた藤村龍至さんの議論熱にあてられたのか、最近やたら建築や都市を論じたい病です。
ここ最近ずっと扱いたくて、でもなかなか手が出なかった話題があるので、これを機に論じてみようと思います。


僕はちょうど2ヶ月前の3月に、このブログにてある記事を書きました。それは先の藤村龍至さん率いるTEAM ROUND ABOUT編による『1995年以後—次世代建築家の語る現代の都市と建築』のレビューです。
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編

この記事を書いて一番嬉しかったのは、当時宮城県にお住まいのあるブロガーさんから、これらの記事に関しての丁寧かつ刺激的なリアクションを頂いたということでした。
「1995以後」ブックレビュー
↑この記事の中ほどに、僕のレビューに対するレビューがあります。

ほぼ同世代であること、福岡の僕に対して宮城という大変離れた場所に住んでいたこと、同じように地方の大学で勉強されていたこと、自分と同じような問題意識を持っていたこと、自分と少し違う問題意識を持っていたこと、そして議論のための言語をある程度共有していたこと、等、いろいろな部分ですごく感動をしました。

ぜひ、このリアクションに対しては僕からもリアクションを返していきたいなと考えていたのですが、いつのまにか2ヶ月という月日が経っていました。僕たちはまだ若いので、2ヶ月も経てば自分の中での思考内容も方法も、多少なりと変わってしまっていることも十分考えられます。すぐにレスポンスできず、ブログの同期性というものを完全に棒に振ってしまったことには多少後悔もしているのですが、ポジティブに考えるとすると、ブログには同期性と同時に、過去にまで遡ってその人の思考の履歴を探れるという時間の厚みの存在も大きな特徴としてあると思います。こういうのを「〜性」と表せばいいのかちょっとわからないのですが、こうやって過去の思考を蒸し返すというのもまた一興かなと思って、今回書いてみることにしました。

前振りが長くなってしまいましたが、つらつら書いてみます。



まず松本さんの素直にこの本を楽しむというスタンスが新鮮に見えたことに自分としては反省しっきり。
彼が指摘するように自分も批評の対象になるということに多少身構えすぎていたようである。
彼のそのおおらかさにまずは勝手に感謝したい。



どうもありがとうございます(笑)
これは、僕自身、社会学や現代建築史に関する知識とボキャブラリーが明らかに乏しいことがわかっていたので、それをごまかすためにとりあえず自分語りに終始してしまおうということを戦略として考えたのですが、その戦略が功を奏して「おおらか」な印象を与えることができたのかもしれませんね(笑)
実際は非常に稚拙な文章でとても恥ずかしいのです(笑)
(笑)マークを多用しなければ、いたたまれないほどに。



彼の期待する『インターフェイスとしての建築』という言葉にも強い魅力を感じる。
少し気になるのは『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という態度で、実はこの態度は現代においては理解できなくもないのだけれど、やはりそれは深層にたどり着ける態度ではないんじゃないかと思ってしまう。
それこそディズニーランド的なものの再生産をイメージしてしまう。
僕はどちらかというと『表層の肥大化』によって『深層』にタッチしようとする勝矢さんのスタンスのほうに共感を覚える。
もちろん、いずれもかなり抽象度の高い言葉であると思うから、この言葉が本当に意味するところはわからないのだけれど・・・。
ただ見えない力を取り込みながら建築を作っていくという姿勢には強く共感を覚える。(だから多分『深層を騙くらかす』という言葉はちょっと違うんじゃないかな)これには本人も自覚しているようにそこに具体的な戦略が見出せないのはやはりもどかしいし、これは藤村氏らの抱えるもっとも根源的な問題と同様のものであるように思う。



『インターフェイスとしての建築』という命題は今でも結構気に入っている言い方で、僕は今のところ、この命題を模索することには一生を捧げる価値があるのではないかと考えています。なので共感してくれる人がいるということはとても心強いです。

そして問題の、『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』の件ですね。これに関しては僕もあの後何度も反芻し「そうだろう」「いや、そうじゃないかもしれない」というような思考のシーソーゲームを繰り返してきました。

ちょっと整理してみます。

まず、問題意識としてあったのは、現在、「建築家が職能を発揮できる領域は、出来事のほんの上澄みの部分である」というか「深層にまで介入してこられると、非常にわけのわからなくて面倒くさいことを言ってくる空気読まない人種だよ、あいつらは」というように社会的に認識されているようだということ。

このように思われているままでは建築家は何もできないじゃないかと思ったんです。だから最初の段階から表層と深層が同じゴールを目指してパートナーシップを結ぶことができるような状況ができないか、ということを考えていました。

その時に例えばデザイナーズマンションのように深層の方から提示された価値観だけに準じてパートナーシップを結ぶというような状況は悔しいし、その価値観はこれまでの資本経済のなかで形骸化してしまった過去の成功武勇伝に支えられている場合が多いと思うのです。それでは“今、ここ”に立ちはだかる課題を乗り越えることはできないと思うわけです。

しかしながら、表層に携わる人間と深層を操作している人々が、何度も議論を交わして少しずつ信頼関係を築いていくということも、基本的には時間的に物理的に無理な幻想です。(例外的にそういうことを実現できている人達もいる。例えばここで紹介した人達など。しかしながら彼らが都市の骨格や肉付きを操作することは今の社会ではできないだろう。彼らが扱うのはビタミン剤を飲んで体調を整えたらちょっと顔色が良くなるとかそういう範囲の操作。しかしとても重要な存在と活動ではある。)これは藤村さんなんかが日頃から切に訴えている問題点ですね。

そうであれば、はじめから表層を提案する側が、深層の状況を理解し信頼しているというポーズを示し、深層の倫理と価値観の内でそれらを構成する言語や文法を批判的に組み替えたような“ストーリー(うまい話)”を提示することができれば、つまり同じような価値観で議論できるような場を用意できれば、表層を扱う人間がポジティブに深層に介入していくことができるのかな、と考えたわけです。

ここまでが、当時『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という命題に至ったプロセスです。
このようにもういちど整理し直してみると、僕自身の目指すものとしては、勝矢さんのアプローチとは基本的にほぼ一致していると思いました。
なぜ言い方を変えたのかというと、僕は表層を扱う人間が「表層でもできること」だけではなく「表層ではできないこと」にも関わっていけたらいいなあ、という心理というか意気込みの現れだったのだと思います。
ただ、そうなってくると、『ストーリーを肥大化させる』という言い回しは適切ではない気がしました。それはYOSHIDAさんが指摘されているように、確かにディズニーランドであったり忍者村的な環境の出現を予感させると思います。つまり『ストーリーを肥大化させる=ストーリーを一人歩きさせる』ことは表層と深層との距離をむしろ押し広げるものであるように考えられるからです。表層がストーリーとだけしか、あるいは深層がストーリーとだけしか関係を結ばないようになってしまうと、それはすごく怖い現象だと思いました。的確な指摘をありがとうございます。

ではどういう表現をするべきだったのか。
ちょっと今の時点では勝矢さんのように明快な言葉が見つからないのですが、イメージとしてはおそらく、「表層を肥大化させる時に、つまり表層から深層に向かって圧力がかけられる時に、ちょうど良いくらいの割合で表層と深層の力関係がバランスするようになる、表層と深層との境界面(インターフェイス)をデザインしたい。つまりその境界面の浸透圧を調整したい。そしてその浸透圧を調整するものがストーリーである。ストーリーは表層と深層との中間領域として機能する。」ということかな、と今は考えています。もう少し洗練させる必要がありますが…。



それといわゆる郊外化がトータルな視点でみると幸せ(のようなもの)を享受しているという認識は、僕の経験的にはなかなか理解しがたい。
その証拠に僕がかつていた世界(高校までの地方郊外での生活)はテレビやサービス過多の受動的な世界にどっぷりと浸かってしまった本来のコミュニケーションの楽しみや創作の楽しみのない虚構の世界であったから。



なるほど。確かにそのような世界を生み出す郊外化はあまり歓迎したくありません。それらは郊外という環境だけに顕著な世界ではないのかもしれませんが、とても大きな不幸せだと僕も思います。

それと、僕が「郊外化」という単語を用いてしまったことはいささか不適切だったかもしれません。僕があそこで言いたかったのは「見えざる力の運動」のことだったのです。「見えざる力の運動」がもたらす影響によってたくさんの人間が住むところを得、便利さを得、経済的な負担が減り、時間的な余裕ができ、というような点に幸せを見出していたのです。(それこそが郊外化であり「虚構の世界」を生み出す運動であると言われると、そうかもしれないとも思ってしまいますが。)
しかしながら、もともと萎びた農村などからすると隣接する市街地の郊外化(主にローサイド化)は、相当に生活を改善してくれる出来事であったという一方で、YOSHIDAさんのご実家のようにそれによって不利益を被る人々がいるという一面もあるというような状況は、あまり健康的な関係性ではないと思います。僕が不用意に書いてしまった「郊外化が人を幸せにする」などといった内容には、もしかするとお気を悪くされたかもしれません。
「見えざる力の運動」に着目し、それらをコントロールすることで、取り巻く環境に暮らす人々の幸せな関係性を維持しつつ、好ましい環境を作っていくことができたとしたら、理想的だと思います。



以上がレビューのレビューを受けて僕が考えたことです。
なんか、自分の意見の釈明のような体裁になってしまい、あまりいい文章にはなりませんでした。ダラダラと長いし。
やはりブログだけで議論を展開するというのは難しいものだと思った。
でもとりあえず、何はともあれ、いい勉強になりました、ありがとうございます。と、勝手に感謝しておきます。




最後に、全然話が変わるのですが、勝矢さんが社会の価値観が個別化・多様化してきたというように述べていたが、その一方で最近のニュースなどを見ていると建築が世の中の「安全」至上主義の先導役として期待されている感がある。地震などの天災から守ってくれる。犯罪から守ってくれる。不景気から財布を守ってくれる。など、建築は一様に、これらの価値を求められている。(なにも今になって、急に求められ始めたことではないのですが、とかく最近ではそれらは全て建築が責任を負うべき対象となっている。)
つまり、個別化・多様化する価値と普遍化・全体化する価値が併存しているような状況になってきたように思う。
このような状況の中で僕らがどういうアプローチで深層に挑んでいくか、まだまだ考えていかねばならない問題です。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-11 03:50 | 晴れ
bbq
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今日はバーベキューをしようと誘ってもらったはいいものの、
昨日とかずっとブログ書いたりナルトのアニメ見たりで、ずっとパソコン画面凝視し続けていたせいか、なにか目の裏がやたら疲れてて、なんか眠くて寝ててごめんなさい。
片付けのとこらへんのタイミングで行ってみたはいいものの、行ったは行ったで、最初からおればよかったと後悔しました。

それにしてもナルトはやっぱり面白いわ。アニメでは初めて見たけど、3代目の戦いとか、守鶴とガマ親分の戦いらへんの迫力は半端なかったです。

マンガ読みたいー。


あと、両親と妹がゴールデンウィーク中にETC1000円ルールで長崎から大阪まで旅行に行ったらしい。どうせ、渋滞と人混みやろ、気の毒に。と思っていたが、まったく渋滞にも人混みにも当たらなかったらしい。おかしいやろ。どうなっているんだ。あの人達、こういう時にはやたら運がいい。僕はそのDNAは受け継げなかったようです。ゴールデンウィーク、やっぱ疲れるわー
by matsumo5402 | 2009-05-07 00:28 | 晴れ
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_3日目vol.2
前回の投稿では5/4の昼のイベントを取り上げた。この記事では5/4夜のイベントである「若手建築家のアジェンダ [福岡]」をレポートする。


■若手建築家のアジェンダ [ 福岡 ]
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左から順に藤村、井手、平瀬、清原、井上、相良、二俣

このイベントは福岡市近辺に事務所を構え、福岡という地域を中心に活動をしている若手建築家6人+モデレーターの藤村龍至さんによるトークイベントであった。
6人の若手建築家とは、井手 健一郎・イノウエサトル・清原 昌洋・相良 友也・平瀬 有人・二俣 公一(敬称略)というメンバー。僕からすると、知っている方と、失礼ながらも存じ上げない方がちょうど半々というような構成であった。ただし知っているとは言っても、これまでに濃密なコミュニケーションがあったということではなく、メディアを通じて、あるいは巷の噂などから得た情報にて“知って”いたということであった。なので彼らの思考はほとんど初耳で、意外な発見も多々あった。そういう意味で東京の建築家の聞き慣れたレクチャーとはまた違った新鮮さを感じながら聞くことができた。

余談ではあるが、やはり僕らは(特に僕は)、建築に関してはフィジカルなものよりもメタフィジカルなものの方に大きく影響を受けているという事実に切実に気付いた。福岡といえどある程度巨大な都市であるので、“特定の人との出会い”というものを考えた時に、福岡の僕が東京の誰かと知り合う確率と福岡の誰かと知り合う確率は実はそれほど変わらないものかもしれない。だから福岡の人との関係=フィジカルということには短絡したくないが、それにしても東京の人しかほとんど僕に情報を与えないという状況には、現代におけるフィジカルとメタフィジカルの因果のようなものを考えないわけにはいかないのである。


ま、そういうわけで簡単な整理の意味も込めて、それぞれのプレゼンテーションを簡単に概観する。ちなみにこのイベントでも、藤村さんによる席替えが行われたので、その席順にレポートを行います。読むのがしんどかったら最後の総括に飛んで下さい。



:::井手健一郎:::
井手さんに関しては前回のブログにおいてもレポートを行っている。
彼は一貫して、
『建築を「翻訳的に作る」』
ことを模索しているようであった。

彼はできるだけ彼自身の主観とは距離をおきながら設計を行うことを目指したいという。彼の場合、これは客観的で普遍的な建築モデルを目指すというモチベーションではないようであった。そうではなく、設計という行為を施主や建物と関わる人々に対して開いていく(共通の言語を持ってコミュニケーションできるようにする)ことで、建築家の社会的な倫理ひいては建築家の社会的な立ち位置を得ることを目的としているように考えられる。

今回のプレゼンテーションでは主に個人が施主である住宅と週末住宅兼集合住宅の説明がなされた。空間構成の説明はほとんどなく、設計のプロセスを問題にした説明であった。
そのプロセスを聞いていて思ったのは、翻訳している自分以外の“声”は施主からの “声”オンリーであるのではないかということである。井手さんの目指すものを読み取ると、やはり翻訳すべき“声”はもっといろんなところから発せられる“声”達であるはずだし、井手さんも気付いていることであろう。そこにはやはりジレンマがあると思う。
そしてそのジレンマに光明を見出せるのが、前回のブログで話題にしたリノベーションのプロジェクトであったのではないか。

今はまだ方法論を模索しているという印象ではあるが、意志の強さに期待する価値を感じています。


:::平瀬 有人:::
平瀬さんは「ローカリティと建築の素形」というテーマで自身が関わってきたプロジェクトのプレゼンテーションを行った。
彼の履歴は今回参加していた他の建築家に比較してある意味で特徴的であった。というのは、彼は早稲田大学の古谷研究室に所属していた学生時代から連続してその後しばらく古谷事務所にて勤務している。その後スイスに渡り、地場の設計事務所と共同で設計をやるといったことを経験した後、現在佐賀大学に勤務し建築教育を行いながら設計活動を行っている。つまり九州での活動が地場での活動であるよりは、なにか放浪する旅人が偶然立ち寄った港で行う一過性のイベントのようなモノとして捉えられそうである。故に何か普遍的で抽象的なものを志向しているように思える気がする。

彼はローカリティを問題にしていたが、地場の(特に世代が上の)建築家によく見られるような盲目的で狭義なローカリティ、例えば「〜らしさ」のようなものではなく、何かもっと普遍的なローカリティのようなものを模索しているように思われた。それはかつての批判的地域主義的な文脈の連続としても理解可能であるかもしれない。ただ、彼が問題にしているのはグローバリズムによる場の均質化という部分よりは、情報化にともなう場の喪失に対しての方が大きいような印象を受けたという点で、彼の現代性と可能性を感じている。


:::清原 昌洋:::
清原さんは「わかりやすさと多様性」というテーマでプレゼンテーションを行った。
彼は主観的なイメージをとても大事にしたいと述べた。にもかかわらず、建築形態の生成原理は非常に形式的・図式的/客観的なものであった。
その辺の一見矛盾する価値をブリッヂするキーワードとしてコミュニケーションという言語を持ち出せるのではないかと思った。主観的なイメージを施主や社会に対して伝達する(あるいは共有する)手段として形式的で図式的な言語を用いる。それによって設計者と社会とのコミュニケーションを可能にしていこうと考えているのではないか。

このようなことを言うのは非常に失礼なことだと承知しているが、清原さんはあまり口達者な方ではないようであった。それが言語化されていないイメージを語ろうものなら全く言葉が出てこなくなるのは仕方のないことである。しかしながら、形式的な図式を用いて説明を行っている時には非常に口調が滑らかであった。これはやはり、形式や図式が優れたコミュニケーション言語として機能しうることを証明しているのではないかと密かに考えていました。


:::イノウエサトル:::
井上さんは「アイデンティティ・アジェンダ不在の5年間。そして…」と言うテーゼを表明しプレゼンテーションを行った。どういうことかというと、これまで様々なことと相対化を図ることなくがむしゃらにやってきた5年間を振り返りながら、今回のイベントを機に、(今回は特に藤村龍至を標的にして)自身の相対化を行う作業を行ってみたというような内容であった。

例えば、“批判的工学主義”に対する“芸術工学”。彼はかつての芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)に所属していたという履歴があり、それもあって“芸術工学”をこれまで幾度となく考えてきたが、これはどうも“芸術工学”の工学に対する姿勢は“批判的工学主義”のそれに近いのではないかと思ったという。“芸術工学”は狭義の“批判的工学主義”であると。
ちなみに僕自身は現在芸術工学部の学生をやっているが、僕の見解としては、“芸術工学”には工学から芸術へのベクトルと芸術から工学へのベクトルの両方が同時存在しているから、“批判的工学主義”をむしろ包含するもうちょっと懐の広い概念であると自負している。
ただ藤村さんが抜きん出てるのは、“批判的工学主義”に対して“超線形プロセス”という明解な方法論を表明しているという部分である。

話を井上さんに戻すが、彼の主張の骨子は、芸術=“イマジネーション”を工学=エンジニアリングによってブリッヂしよう、コミュニケーション可能にしようというところであったように思われる。(ちなみに“イマジネーション”に関する定義はこの記事の中で行っています。)


:::相良 友也:::
相良さんは「居心地をデザインする」ということを目指しているのだという。
彼は主に個人住宅を扱っているようであるが、その中で、人々の生活の場を設計する時に大事にすることは、設計者自身が「創造/想像することを楽しむ」というスタンスであるという。

これは、つまり設計をする時には設計者のテンションやモチベーションを持続させないと質の高い空間はできないのではないかという問題提起なのではないかと勝手に考えている。

設計者が、自分の考えていること心から愛し、それを施主や他者に嬉しそうに話すことこそが、コミュニケーションの基本だと考えているということではなかろうか。もしそうだとすれば、僕にとって非常に共感する考え方であった。


:::二俣 公一:::
二俣さんは「場の力と生む力」というテーマの下にプレゼンテーションを行った。彼の議論を極端に言うと、「デザイナーとは主観的で恣意的なイメージをひたすら提案し続ける職業なのではないか」といことではなかったかと思う。つまり、井手さんの議論に対して述べるとすると、いくらたくさんの“声”を取り入れ(入力し)たとしても、結局翻訳されて出力されてくるものは、主観的なイメージからはみ出ることはないのではないかということではないだろうか。そうであれば、プロセスの客観性を拠り所にある意味では妥協の連続である建築や空間のイメージを肯定するよりも、主観的なイメージを必死に伝えて共有して、さらに発展させるというコミュニケーションを行う方が、正攻法ではないのかという問題提起ではなかろうか。

僕自身は、実はそのような問題意識を抱いている。というのは、建築家の倫理観(スタンス)などというものは、実際の空間とその空間体験とは直接的には関係しないものであると思うからだ。もちろん間接的には関係することは間違いない。しかしながら“建築家としての優れた倫理観(スタンス)”=“豊かな空間”という構図は絶対に成り立たない。
僕は建築と社会との関係を議論することはとても大事だし、誰もが意識的であるべきだと考える。しかしながらその一方で、空間のためのイメージ、あるいはイメージのための空間の議論もないがしろにしてはいけないと切に思っている。そういうイメージや空間にまつわる現象を皆、“主観的”であると述べる傾向にあるが、それらが抽象化や具体化を経た後に言語化され得るものだとしたら、“社会性”の対語として最近よく言われるような意味での“主観的”であることを超え、コミュニケーション可能な対象として扱えるだろうと考えている。僕はそのようなイメージや空間にまつわる議論を大いにしていけたらと考えている。(やもすると、モダニズムに対するボザール的な感情なのかもしれませんが…笑)

ちなみに、もちろん井手さんなどがそういうことには当然意識的であることはわかっているのだが、僕が警鐘を鳴らしたいのはその次の世代であって、井手さんなどの第一次情報を誤解して咀嚼してしまうことに関してである。倫理観(スタンス)だけを遵守していけば素晴らしいものを作れるのか、否。そこには大きな隔たりがあって、“イマジネーション”をどう捉えていくかということはまた異なる水準での思考が必要となるはずだ。それこそが、翻訳者としての建築家の職能であると言えるのではないだろうか。



:::まとめ:::
なんか僕が言いたいことは全部すぐ上の二俣さんのレポートの中に書いてしまいました。なのでそちらの方だけでもぜひ読んでほしい。

つまり、建築の設計プロセスの部分、つまり建築と社会との関わり方に価値評価の重きが置かれ出した(ように見える)状況において、そういう状況の中でもやはりどうしてもモノ自体の価値評価は幾らかはなされるべきであるし、そのための研究であったり提案、議論は行っていく必要がある。それが全く無くなってしまったとしたら、藤村さんの“批判的工学主義”であったり井手さんの“翻訳するように建築を作る”というスタンスのよって立つ根拠さえも無くなってしまうのではないかということです。

これは本当に僕が切実に感じている問題意識なのです。


最後に参加者を、藤村さんのカテゴライズによるグラデーションに沿って概観してみる。
いろいろな言い方でいろいろな考え方が示されていたが、結局のところ、建築家やデザイナーが建築やデザインを発信する段階でどのように社会とコミュニケーションしていくかということを論じていたように思える。つまり、建築家やデザイナーによるメディア論として観察できるだろう。

:プロセスを形式化し誰でもコミュニケーションの仲間に加われることを目指す井手さん。彼はおそらく空間の“イマジネーション”も、誰もが持っている(はずの)一般的な感覚の一般的な説明によって獲得しようとしているであろう。
::論理的にローカリティの重要さを分析し、抽象的にローカリティを持ち込むことで、“イマジネーション”の生じる根拠から生み出す方法までを全て言語化することでコミュニケーション可能な地盤を用意する平瀬さん。
:::言葉にならないイメージを、形式的で図式的な生成原理によって実現しよう(コミュニケーションしよう)とする清原さん。
::::言葉にならないイメージを、エンジニアリング的な根拠と方法によって実現しよう(コミュニケーションしよう)とする井上さん。
:::::そもそもの実現する(コミュニケーションする)モチベーションを問題にしようとする相良さん
::::::主観的なイメージをぶつけ合うことによってしか空間に関するコミュニケーションは成立し得ないという二俣さん。

こうしてみていくと、対極におかれた井手さんと二俣さんは実は根本のところで同じ問題意識を抱いているのかもしれない。結局どのようにしたら空間に関する議論を活発に繰り広げることができるだろうかということである。
その点に関しては僕も本当に真剣に考えていきたいと思っています。




この3日間、いろんな人間の考えることを真剣に分析したことによって、逆に自分の思考が明確に浮かび上がってきたように思う。
このような機会を設けて下さった、井手さんを始めデザイニング展の実行委員の皆様、活発な議論を引き出してくれた藤村さん、そして活発な議論を交わして下さった皆様には本当に感謝しています。
どうもありがとうございました、そして本当にお疲れさまでした。


関連:
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_1日目
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.1
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.2

ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_3日目vol.1



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-05 19:48 | 晴れ
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_3日目vol.1
5月4日トークイベント最終日、福岡は雨。
打って変わって5月5日今日、一昨日昨日の灰色の空が嘘だったみたいなバカみたいな晴天。雲一つない。
やはりどんたくの日は雨というジンクスは手強いようである。

さて、ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”3日目、最終日のレポートです。
この日行われたのは、「リノベートのはなし」と「若手建築家のアジェンダ [ 福岡 ]」の2つのイベント。
それでは早速。


■リノベートのはなし
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福岡周辺で、リノベートに関わる仕事を行っている(あるいは行ったことのある)建築家(デザイナー)からプロデューサーとしての不動産業界の方までを幅広く一堂に会し、「何故残すのか、何を残すのか」をテーマに議論が行われた。

参加者は井手 健一郎・斉藤 昌平・貞国 秀幸・野田 恒雄・春口 治彦・松山 真介と、モデレーターとして藤村 龍至。(敬称略)
始めに全ての参加者より、それぞれどういうスタンスでリノベートに関わるかということに関するプレゼンテーションが行われた。
それを踏まえてモデレーターの藤村さんが参加者のスタンスを(あえて)カテゴライズし、それぞれのスタンスにおける問題点などを話題に議論が深められた。

面白かったのは、カテゴライズの後に、そのカテゴリ同士の関係性に基づいて実際に参加者の席順も入れ替えたことである。メタフィジカルな言語空間での分節・統合をフィジカルな実空間での空間配列に対応させることで、再びメタフィジカルな空間での体験を濃密なものにするというような、建築的な操作の醍醐味を、こんなにあっけらかんとした雰囲気の中で体験できたことにはすごく感動した。これは藤村さんの分節が非常にクリティカルであった故に体験できた現象であることは間違いないだろう。慣れない人がなんとなく分節・統合を行っても、体験は濃密になるどころか雲散霧消してしまうということは何度も目にしてきた。

…というようなフジムラ評価はこの辺にして、このレポートでは席替え後の席順に基づき参加者のプレゼンテーションを概観するということを、まず行うこととする。読むのがしんどい人は最後の総括に飛んで下さい。


:::井手 健一郎:::
井手さんは「建築家の職能には翻訳者」的な側面がある。氏は「翻訳家としての建築家」を目指したいと主張する。
というのは、「1つの建築を取り巻く“声”は非常に多彩であり、それらをばっさり切り捨てて、デザイナーの趣味嗜好が主導するような建築や空間の作り方が、そこに関わる人間を幸せにする建築や空間を作れるだろうか、いや否であろう。」というような問題意識を打ち出し、「それならば、建築家がそれらの大量の声を積極的に聞き取り(入力)、建築のエンジニアリングな部分にそれらの“声”を対応させていく(翻訳)ことで、使い手にとって非常に親密な建築や空間を作れる(出力)だろう」というようなロジックなのである。

こういうスタンスに基づき、氏がリノベートを考える時に重視していた(ように思われる)ことは、
新築の設計の場合に対して、
・場所(敷地)の性格、個性、発展可能性を読み解く。
に加えて、
・(今ある)建築の性格、個性、発展可能性を読み解く。
というスキームが追加されるという部分である。
ここでは、新築の場合は施主と敷地のコミュニケーションを翻訳することが中心であるが、リノベートの場合は今ある建物が周辺の環境と共に繰り広げているコミュニケーションを翻訳することも可能になったという思考も見出された。
新築の設計には見出しにくかった、周辺環境と自分が関わる建物とのコミュニケーションをリノベートの際にはしっかり見出せている。というのは深読みであろうか。
…この話はまた、「若手建築家のアジェンダ」のレポートに関連付けていきたい。


:::斉藤 昌平:::
斉藤さんはリノベートを行うことの価値を、「古美る(ふるびる)」というキーワードにおいて説明した。
古いものには記憶が発生する。これこそが美である。ということが「古美る」の概要だ。
これは空間の濃密さが、場の持つ意味やコンテクストに反映されるというような藤村さんの考えとも共通している価値観かもしれない。

面白かったのは、氏がリノベートの方法として
・保存して、残す
・使いながら、残す
・作り換えて、残す
という3つを挙げていた中での、3つめの「作り換えて、残す」に関連するのだが、
古くからのコミュニティを形成している農村地区において、地区の主要な施設を“建て替え”ることによって、地区全体をリノベートしよう。というように、リノベートの範囲を建物単体に留まらず更に大きなスケールまで拡大して考えようとしている氏のスタンスであった。


:::野田 恒雄:::
野田さんは、設計作業においては、ヒエラルキー的な垂直構造のコミュニケーションではなく、フラットな平面構造のコミュニケーションが重要だと主張する。
そのために、1つのプロジェクトにおいてプロデュースからモノの設計、更にはマネジメントまでトータルに関わっていくことで、フラットな設計空間の構築を目指していた。
野田さん自身からはリノベートにこだわる意義のようなものはとくに触れられてはいないが、おそらく何もない土地で何ができるかを考えるよりも、具体的な場所がすでに存在してそれを使いながら考えていく方が、様々な領域とフラットに設計していくスタンスにおいては有利であるということかもしれない。

氏のスタンスには僕自身大変共感するし、もっと大きな力を獲得していけば福岡のような地方都市であれば深層にまで介入していけるのではないかと思っている。


:::松山 真介:::
松山さんは、自分自身リノベートによる具体的な空間設計を行う傍ら、福岡市近辺に点在するいわゆる「掘り出し物物件」を紹介するという活動を行う。
経済的に比較的安価な物件を紹介し、そこにリノベート(主に内装の改修)を施すことで、空間的な豊かさをお財布にも優しく提供できると考えている。

非常に洗練された、可能性のある市場のシステムだなと思う。


:::貞国 秀幸:::
貞国さんは不動産業に携わる人間として、いかに街の活性化を達成できるかを考えていた。彼の問題意識は、従来の不動産のようなソロバン勘定での経済的成功は必ずしも街の活性化には寄与していない。竣工時の経済的成功は必ずしも持続するとは限らない。という部分にあった。
彼はその問題に対して、住民同士のコミュニティの形成の重要さを主張する。コミュニティを促すアーキテクチャを備えている物件は、スタートダッシュはないかもしれないが、一度軌道に乗れば持続的な経済システムが確立する。そのような物件がたくさんある街も自然と持続的な経済を獲得できるだろうという仮説であった。

そのために不動産や金融などの業界内において、生活することのイメージをコミュニケーションできる言語が必要となると考えているようである。
ちなみに彼がリノベートに多く関わる背景としては、不動産業界内における、コミュニティとかそういう経験的な価値の経済性に対する不信があるのではないか。
貞国さんはそのような不信を払拭するために実績を残したいと切に思っていた。


:::春口 治彦:::
春口さんは不動産屋として、いかに客に満足してもらえる物件を提供できるかを問題にしていた。
彼は、そのために主観的なイメージを提示することが最も大切だと主張する。経済性や機能性などは、イメージの価値を補強するものであった方が、客はガッカリしない。というようなロジックである。例えば、「すごいかわいい部屋のわりには、賃料も安いし設備もしっかりしてるじゃない」というような心理である。

提供者側が物件の価値をズラして提供することで、デッドな物件を再び市場経済の中に引き戻す試み。



:::まとめ:::
藤村さんのカテゴライズによると、参加者がデザインによって資本経済の中の上流から下流までのどのへんの領域にタッチしようとしているかという見方で、主に下流部分へのタッチの仕方を模索する井手さん斉藤さん、上流から下流までトータルにタッチしようとしている野田さん松山さん、上流部分からタッチしてきている貞国さん春口さんというグラデーションであった。


彼らの問題意識を概観してみると、モチベーションは違えど皆、「空間体験をいかに豊かにできるか」という議論に回収できるように思った。ちなみに「空間体験を豊かにする何か」に関しては前回の記事で“イマジネーション”という言語を対応させて議論している。今回も“イマジネーション”をキーにまとめたい。

ここで彼らの言説をグラデーションに沿って見ていくと、
まず下流部分では自分の提示する“イマジネーション”をどう他者と共有していけるかが問題となっているようである。これにたいして井手さんはプロセスの形式化を、斉藤さんは価値観の言語化を行うことによって、他者とのコミュニケートを可能にしようとしている。
一方、上流部分ではそもそも“イマジネーション”を価値として受け入れる体制ができていないところが問題であるようだ。不動産・金融業界においては経済的な価値がまず第一としてあり、“イマジネーション”が経済的効果を生みだすことが実証されない限りなかなか“イマジネーション”をコンセプトとして掲げることは容易ではない。貞国さんはコミュニティの形成という“イマジネーション”によって、春口さんはレトロ感という“イマジネーション”において、経済的な成功を実証しようとしている。
そういう中で、上流から下流までトータルに関わろうとする野田さんや松山さんは、「頑張って上流と下流をブリッヂしよう」という意識よりは、「むしろ上流から下流まで全部関わった方が、やりやすいじゃん」というような意識でトータルな関わり方を選択しているように感じられた。

ちょっとリノベートの話題に議論を収束できそうになくなってきたのを、ちょっと無理に引き寄せてみるが、
おそらくリノベートというプロジェクト形態は新築などとは少し状況が異なり、上流と下流を結ぶ道筋が結構明らかなものとして観察できる。そういう意味で、これまでの上流の人間と下流の人間が歩み寄っていくことで共通の言語を獲得しやすい状況であるように思える。

前回のブログでは論理性と“イマジネーション”の関係を考えることができたが、今回は経済性と“イマジネーション”との関係を考えることができた。
今回のレクチャーを聞く中で、“イマジネーション”の価値と経済性の価値を結んでいく試みが見られたことは、それぞれの業界の中での一部の人間のアクションであったとしても、可能性が生まれている実感はしっかり受けることができたということが嬉しく、一番の収穫であった。


続きはまた。


関連:
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_1日目
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.1
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_2日目vol.2



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-05 16:36 | 晴れ
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING ” TRANSMISSION ”_1日目
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING” TRANSMISSION ”1日目のレポートです。

■デザイニング展
まずイベントの概要を軽く。

福岡市ではデザイニング展というイベントが毎年開催されています。ちなみに僕自身はこのデザイニング展の運営その他に全く関わったことがないので、ある意味でデザイニング展にとっての外部の人間であります。そういうわけで、外からの認識においてデザイニング展を簡単に説明します。

デザイニング展は福岡で活躍する建築設計事務所rhythmdesignの特に井手健一郎さんが中心になって2005年から始まったイベント。“デザイン”と呼ばれる領域と街(市民)の生活との架け橋を作りたいという問題意識を共通のモチベーションとしてたくさんの人間を動かしているイベントであると認識しています。運営の外部の視点から見ても、先に述べた問題提起に対して一定の成果をあげていることは間違いないでしょう。

少し余談を挟むが、この高い成果にはやはり福岡市(特に中心部)の街の性格が大きく寄与しているように思う。どういうことかというと、福岡市はよく言われるように非常にコンパクトな街であり、地区ごとに福岡市における役割というものが、わりかし明確であるように思われる。特に中心部においては顕著である。例えば少々乱暴に地区の性格をラベリングすると、博多地区=オフィス街、中洲地区=歓楽街/風俗街、天神・大名・今泉地区=歓楽街/ファッション性の高い街、というような分類は可能だろう。つまり、東京などのようにいろんな街にお洒落な人間がある程度均等に分布しているような状況に対して、福岡の場合ファッション、デザインに関心のある人種は天神地区周辺にまさに一極集中する傾向があるのです。だからイベントの中心を天神地区に置くことで、ハイファッションな人種を大量に味方につけ、力を得、それ故に大川などの福岡にとっての周縁部に対しても十分な働きかけができるのだろうし、主な活動内容が1つの地域の中の出来事としてクリアに一望できることがイベントとして継続し得ている要因の一つだと思う。そういう意味で非常にフィジカルなファクターに支えられたイベントであるように思う。もちろん主催者側のただならぬ情熱によるところが最も大きいことは言うまでもない。


■ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING” TRANSMISSION ”
ROUNDABOUT JOURNAL × DESIGNING” TRANSMISSION ”は先に説明したデザイニング展に際して行われる一連のトークイベントなのですが、デザイニング展の井手健一郎さんとROUNDABOUT JOURNALの藤村龍至さんがすべてのトークイベントに関わるということで、デザイニング展とROUNDABOUT JOURNALとのコラボレーションイベントという体裁をとるのだと思います。3日間で計5本のそれぞれテーマの異なるトークイベントが組まれています。(ROUNDABOUT JOURNALに関する概説や風評ははweb上で検索をすればいくらでも出てくると思うので今回は省略します。)



■TRANSMISSION KICK OFF
さて本題です。一日目のイベントはTRANSMISSION KICK OFFと題され、『今、何をデザインしようとしているのか?』というテーマのもと、スピーカー:井手 健一郎・藤村 龍至、コメンテーター:松岡 恭子 、モデレーター:平瀬 有人という構成にて議論が行われました。
イベントの中心人物である井手さんと藤村さんの2人がそれぞれの状況とスタンスを述べつつ、彼らの先輩世代に当たる松岡さんが第三者的な視点から2人と2人の周辺に関して批評を行うことで、これからはじまる議論の道筋、落としどころを探る。それらを平瀬さんがモデレートするという感じでした。

ここで観察された藤村さんと井手さんの両者の共有する問題意識として、「建築・都市に関する議論の場を作る(藤村)」「デザインの発信・説明の仕方を考え直す必要(井手)」というような、建築やデザインにおけるコミュニケーションのための言語や機会の乏しさに対する危機感というものがあるようであった。ROUNDABOUT JOURNALそしてデザイニング展の活動はこういった問題意識をエネルギーとして展開しているのであろう。

一方、両者においてそれぞれ特徴的な考えとして、「まずは専門家による専門的な議論によってこそ新しい議論の平面を見出せるのでは(藤村)」に対して「デザイナーや建築家の言語を一般の市民に対してもわかりやすくすることで議論の場をひろげたい(井手)」というような対比も見出せた。
これに関しては、東京では建築家と社会との繋がりが希薄にならざるを得ないために、まずは専門家を中心に濃密な議論の場(メディア)を用意するところから始めなければ社会と接続できない、という状況に対して、今の福岡というものがが建築家が社会に対して地縁的(?)な繋がりを持って直接接続しやすい都市環境である、というそれぞれの状況の違いから生じる社会との関わり方の方法の違いであるのでは、というような藤村さんの指摘もあった。
つまり、このような両者の違いは、今日の議論でも話題になったように『中央/地方』といった両者の二元論的な絶対的な対立構造のうちに回収してしまうのではなく、様々な要因からなる状況の違いが生み出した流動的な差異というように理解する方がいいだろう。

今日の議論は参加者(スピーカとリスナーの両者)が、これから始まる議論のための下準備をするためのものであったというように理解しているので、客観的にレポートを行った。
明日からの2日間が非常に楽しみである。今日準備したものがどう展開していくのか。今回のトークイベントの参加者を一覧して特に、“アカデミックなもの”や“ファッショナブルなもの”や、あるいは“ヒューマニズム的なもの”など、それぞれのスタンスを横断する形で議論が展開することを期待しています。誤解をおそれずにいうと、福岡の建築・デザイン界においては後者2つのスタンスが主流であるように思う。どれもそれぞれに意義のあるアプローチなのは言うまでもないが、議論の際に、それぞれが自分の得意な領域にだけ閉じこもっていては面白くない。それを乗り越える冒険の中にこそ新しい展開が見えてくるのではと考えています。
ヒヤヒヤするような議論を期待しています。

関連:
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編



author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-02 23:00 | 晴れ
なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか
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この前こんな本を買った。
Chim↑Pom・阿部謙一編『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』河出書房新社

これはChim↑Pomが2008年10月に広島で行った、あるアート作品の制作に関しての第三者の、あるいは第三者との議論の一部をまとめあげた本です。
何のことなのかというと、この人達はこともあろうに広島の原爆ドーム上空に、飛行機雲で「ピカッ」という文字を書いたのです。この出来事に関しては僕もほんの少しこのブログで触れていた。『んーー』08/10/22写真も載せています。
それで当然のことながら、たくさんの広島市民や被爆者の方々からの悲痛な抗議がメディアで報じられ、2ちゃんねるなどでも袋だたきにされてしまいました。一方では、彼らの行為を擁護する声も少なくはありませんでした。
そういう彼らが引き起こしたセンセーショナルな一連の出来事に関する議論をこの本ではまとめあげています。世論に叩かれまくった状況を逆手に取って。
そういうわけで、この本のコンセプトとしては、彼らのこのアート作品(原爆ドームの上に「ピカッ」の文字が書かれて消えていく映像作品)自体の価値を見定めるというよりは、むしろこのアート作品の制作に際して発生した騒動の顛末を客観的にレポートして報告することで、読者に考える材料を提供したいというものだと思う。だから最初の前書きで、この騒動に関する価値判断は読者側に丸投げされている。一方で彼ら自身は自分たちの行った行為には一定の意味があったこと確信しているようである。
そういうスタンスにものすごい共感したので前書き読んだだけで感動して衝動的に買ってしまったという本。だから内容はこれから読んでみます。とりあえず、本自体のコンセプトの素晴らしさを率直に伝えたいと思ったわけです。
例の前書きから引用します。
「…僕たち自身が、この騒動についてもっと知りたいと思っている。なぜならこの騒動から浮上したさまざまな問題こそが、僕たちの表現すべき“今”だと改めて思うからだ…(中略)…この騒動についていっしょに考えてくれる人がいるなら願ってもないことだ。そのキッカケとして、僕たちは騒動に埋もれてしまったものをもういちど拾い集め、いろんな人にこの騒動について自由に語ってもらった。だから、ここに書かれたことがすべてではないし、ここに書いている人だけがこの騒動について考えればいいとも思わない。

彼らは単に原爆と戦争と平和の問題だけを扱いたいのではないのだと思う。そもそもそういう言葉が今の僕らにとって何なのかということを扱いたいのだと思う。そういう当たり前に使ってる言葉が自分たちの生活の中のどのへんに食込んでいるのか。そしてどう関わってきてるのか。
だから彼らは、自分らの作品自体は絶え間ない人間活動の中の一つの断面にすぎないんだ。でもちょっと変わった切り方をしてみた。とりあえず、その断面から周辺を見てくれ。いつもとちょっと見方が変わるんでない?というスタンスなのではないかなと勝手に思った。この本ではそれが明確になってる気がする。

こういう問題意識の人間が増えて、もっと声を張り上げていけば世の中楽しいのになーって、僕はそう思います。


ちなみに…
みんなこの出来事に関しては一貫してアートアート言ってて、なんか、最初、これってアートなのかなー、てかアートって何なのだろうとか、思ったりしたけども、逆に言えばこういうことってアートとしてしか発信できないんだなー、って思いました。アートって懐の広い言葉ね。

それとこの人達、いつもはもっとアホなことを本気でやるので有名です。まあ、「ピカッ」もよく考えたらそうとうアホらしい作品かも。あんまし趣味じゃないけど、好きです、この人達のやること。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-04-30 17:59 | 晴れ
自己啓発
最近ずっと頭から離れない言葉があります。
谷尻誠さんが何かの時に言ってた言葉で、
「建築家は、どんな時でもファインプレーを見せなければいけない」

最初聞いたとき、安っぽい自己啓発的発言だろって、少しバカにしてたんだけど、
よくよく反芻したらこれは結構重い言葉だぞ、って思ってきたんです。
相当な覚悟でないと言えないですよ。
これ主張したら最後、
自分に全て降り掛かる。
人に失敗するなと言ってるわけだから、当然自分の失敗は許されなくなる。
でもたぶん、それによって自身の精神の緊張を高めているわけですよね。
言葉による暗示で精神を高揚させる。
刃衛の憑鬼の術のようなもんですね。

最近流行の自己啓発本ってあるじゃないですか。
人の生き方押し付けられてるようで吐き気がするくらい嫌いなんだけど、
案外、自己啓発本って作者自身が自分を奮い立たせるために書いてたりするのでは、なんて思った。
僕も一冊書いてみるってのもアリかなー。なんて思ったり。


精神論的な話はあんまり得意でも好きでもないんだけど、でもやっぱ、何をやるにも覚悟と責任は持つべきだなーと。そういう意味で、谷尻さんの言葉には共感とまではいかないけど、何か考えさせられるものがあります。僕には覚悟が圧倒的に足りない。
by matsumo5402 | 2009-04-30 04:42 | 晴れ