松本剛志の考えること
by matsumo5402
新天町で思ったこと
天神の新天町商店街入り口付近の金文堂とか積文館とかロッテリアの向き合ってる交差点から明治通に抜けるまでの短い区間。日曜日は歩行者天国になっている。そこに安っぽい、さびれたデパートの屋上とかにありそうなプラスチックのテーブルと椅子がどこからかひっぱり出されてきて、サロンのようになってる。あるいはあの狭くて人の多い新天町商店街のホワイエ的役割として機能している。もともと一方通行で1.5車線分くらいの幅の道で、両側にはそれなりのボリュームの建物が迫ってるから、なんか小さな谷底にいるような妙な充実感のある場所なのだけど、そこにテーブルや椅子を置くセンスに感心した。そういうことだよなーと思った。正直少し嬉しくなったのです。

こういうアクションを仕掛けることのできる主体が都市のどこかしらにいるのだということは当たり前のことですが、それでもそれは、こうして僕らが都市を信頼できるか否かという問題において、とてもポジティブな勇気を与えてくれる。

建築を設計する人は基本、自分の設計する建物とせいぜいその付属品までしか扱えないわけで、そういう状況の中で、アタッチメント的に公共に属するモノを建物に想定することは本当に必要だろうか。公共に供する体でありながら、ホームレス云々の心配をするなど。それは都市を運営する、乗りこなす、住みこなす、参加する主体にとって余計なもの以上の価値を持つだろうか。

都市における主体がいる限り、建築を設計する人は、もっと違う水準で都市を構成する建築単体を考えてもいいような気がしている。つまり、都市における現象にそのまま触れようとするのとは違う水準での思考もあっていい気がする。ある意味で丸投げの姿勢である。もちろん事後的にそれと都市における現象との関係をマネジメントする思考はあるに越したことはない。というかあるべきである。
しかしとにかく、現象を(妄想の中で)わしづかみにして、「こうだ!、こうしろ!」というような恫喝するような、あるいは懇願するようなモノとしての仕掛けを建築単体によって用意したとしても、現実の都市はどうせ思った通りには現象しないものなのだから、せっかくならもっと違う水準で建築を考えた方が有意義な気がするし、それは建築を設計する人に特権として与えられてる自由なのではないのかな。(なぜならどんなに情報開示する設計者であっても人間の頭の中はどう頑張っても他者にとってはブラックボックスなものであるはずだから。)という素朴な思いです。

そういうわけで例えば、建築の設計における事後的なワークショップ。つまり、設計の方針とか物語などを強度のあるもの、「もはやそこにあるもの」として共有しながら、建築に関わる(と思われる)主体と議論を交わす形式のワークショップは最近ではちらほら聞いたりするけど、僕はそこに可能性があると考えたりします。
また、僕はむしろ、設計のほぼ完了したモノ自体をもはや強度のあるものとして、事後的に使い方や関わり方を発見していく手法でも面白い気もする。その方が、参加する主体は、よりリアルに都市での現象を想像する、つまり都市を積極的に獲得できるような気がします。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-09-30 02:27 | 晴れ
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