松本剛志の考えること
by matsumo5402
夏休み
最近文章を記していませんでしたが、今日思ったのが、文章を記しておくべきだったということです。僕にとって文章を書くことは、常に自分が閃き的に、脊髄反射的に考えた物事と、論の展開、つまり物事と物事との繋ぎ方に整合性を確保しようとする事との間に発生する、如何ともし難い数々の矛盾と格闘することなのです。どんなに稚拙な考察や指摘をしてしまったものであっても、この矛盾への挑戦をしたものである限り、少なくとも自分にとっての価値のある記録であることに変わりない。思考を固着させる事で、つまり思考の型を用意する事で、つまり文章のための文章を書こうとする事で、矛盾を生じさせないクールな文章の書き方もあるかもしれません。しかし僕の文章を僕自身は僕があらゆることに対しての思考を固着させてしまうことから必至で逃れようとする逃避行の軌跡として書いて読んでいます。僕は自分の書いた文章をめちゃくちゃ読んでいます。僕は僕の文章達を、僕自身の思考のそのときどきにおける帰結のストックとしては考えていません。つまり僕の文章は僕が僕自身の中であらゆる合意形成を行なうための規範となるものではないということです。僕の文章はある状況における僕の思考の一側面の照射なのです。そういう意味で僕の文章は全て、常に僕自身に対してその都度ネタを提供するものなのです。その都度僕にとってのスタートをその場に用意するわけです。僕は一人でネタ的コミュニケーションをひたすら行なっているようなものかもしれません。しかしそうすることで、常に何らかの跳躍をできると確信しています。ただしこれは、どこかへ向かおうというわけではなく、僕が存在できる領域を拡大しようとしているわけです。
もちろん、一つ一つの文章それ自体は常に固着化してしまった何かしらの意味であるという事実には変わりないです。僕が僕の一連の文章を、どんなに僕の果敢な挑戦の歴史として読んだとしても、僕以外の人は僕のそれぞれの文章を僕そのものとして受け取るのでしょうし、僕自身も一つ一つの文章に対峙するときはその文章を(当時の)僕そのものとして受け取ることになるでしょう。しかし、そこは僕が僕自身のアイデンティティを確立するためには避けては通れない道でもあります。つまり僕以外の誰かの意識の中で僕の存在の意味が固着していることによって、逆に僕がその誰かの中の僕をもう一度経由することで今の僕との距離を確認できることになるからです。そこに僕は僕自身の可能性を見出そうとするわけです。それが他人とコミュニケーションするということだと思います。そしてややこしいのですが文章を書くということはそのコミュニケーションが当面自分一人でも成立できる環境を構築することなのです。ここ最近文章を書いていなかったために、僕は以前ほど、つまり文章を書いて読んでいたときほど自分とのコミュニケーションが有意義でないのです。


author:松本剛志
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by matsumo5402 | 2009-09-25 04:11 | 晴れ
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