松本剛志の考えること
by matsumo5402
1995年以後レビュー_後日記
こんばんは。
この前デザイニング展に来ていた藤村龍至さんの議論熱にあてられたのか、最近やたら建築や都市を論じたい病です。
ここ最近ずっと扱いたくて、でもなかなか手が出なかった話題があるので、これを機に論じてみようと思います。


僕はちょうど2ヶ月前の3月に、このブログにてある記事を書きました。それは先の藤村龍至さん率いるTEAM ROUND ABOUT編による『1995年以後—次世代建築家の語る現代の都市と建築』のレビューです。
1995年以後レビュー_1
1995年以後レビュー_2_自分編

この記事を書いて一番嬉しかったのは、当時宮城県にお住まいのあるブロガーさんから、これらの記事に関しての丁寧かつ刺激的なリアクションを頂いたということでした。
「1995以後」ブックレビュー
↑この記事の中ほどに、僕のレビューに対するレビューがあります。

ほぼ同世代であること、福岡の僕に対して宮城という大変離れた場所に住んでいたこと、同じように地方の大学で勉強されていたこと、自分と同じような問題意識を持っていたこと、自分と少し違う問題意識を持っていたこと、そして議論のための言語をある程度共有していたこと、等、いろいろな部分ですごく感動をしました。

ぜひ、このリアクションに対しては僕からもリアクションを返していきたいなと考えていたのですが、いつのまにか2ヶ月という月日が経っていました。僕たちはまだ若いので、2ヶ月も経てば自分の中での思考内容も方法も、多少なりと変わってしまっていることも十分考えられます。すぐにレスポンスできず、ブログの同期性というものを完全に棒に振ってしまったことには多少後悔もしているのですが、ポジティブに考えるとすると、ブログには同期性と同時に、過去にまで遡ってその人の思考の履歴を探れるという時間の厚みの存在も大きな特徴としてあると思います。こういうのを「〜性」と表せばいいのかちょっとわからないのですが、こうやって過去の思考を蒸し返すというのもまた一興かなと思って、今回書いてみることにしました。

前振りが長くなってしまいましたが、つらつら書いてみます。



まず松本さんの素直にこの本を楽しむというスタンスが新鮮に見えたことに自分としては反省しっきり。
彼が指摘するように自分も批評の対象になるということに多少身構えすぎていたようである。
彼のそのおおらかさにまずは勝手に感謝したい。



どうもありがとうございます(笑)
これは、僕自身、社会学や現代建築史に関する知識とボキャブラリーが明らかに乏しいことがわかっていたので、それをごまかすためにとりあえず自分語りに終始してしまおうということを戦略として考えたのですが、その戦略が功を奏して「おおらか」な印象を与えることができたのかもしれませんね(笑)
実際は非常に稚拙な文章でとても恥ずかしいのです(笑)
(笑)マークを多用しなければ、いたたまれないほどに。



彼の期待する『インターフェイスとしての建築』という言葉にも強い魅力を感じる。
少し気になるのは『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という態度で、実はこの態度は現代においては理解できなくもないのだけれど、やはりそれは深層にたどり着ける態度ではないんじゃないかと思ってしまう。
それこそディズニーランド的なものの再生産をイメージしてしまう。
僕はどちらかというと『表層の肥大化』によって『深層』にタッチしようとする勝矢さんのスタンスのほうに共感を覚える。
もちろん、いずれもかなり抽象度の高い言葉であると思うから、この言葉が本当に意味するところはわからないのだけれど・・・。
ただ見えない力を取り込みながら建築を作っていくという姿勢には強く共感を覚える。(だから多分『深層を騙くらかす』という言葉はちょっと違うんじゃないかな)これには本人も自覚しているようにそこに具体的な戦略が見出せないのはやはりもどかしいし、これは藤村氏らの抱えるもっとも根源的な問題と同様のものであるように思う。



『インターフェイスとしての建築』という命題は今でも結構気に入っている言い方で、僕は今のところ、この命題を模索することには一生を捧げる価値があるのではないかと考えています。なので共感してくれる人がいるということはとても心強いです。

そして問題の、『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』の件ですね。これに関しては僕もあの後何度も反芻し「そうだろう」「いや、そうじゃないかもしれない」というような思考のシーソーゲームを繰り返してきました。

ちょっと整理してみます。

まず、問題意識としてあったのは、現在、「建築家が職能を発揮できる領域は、出来事のほんの上澄みの部分である」というか「深層にまで介入してこられると、非常にわけのわからなくて面倒くさいことを言ってくる空気読まない人種だよ、あいつらは」というように社会的に認識されているようだということ。

このように思われているままでは建築家は何もできないじゃないかと思ったんです。だから最初の段階から表層と深層が同じゴールを目指してパートナーシップを結ぶことができるような状況ができないか、ということを考えていました。

その時に例えばデザイナーズマンションのように深層の方から提示された価値観だけに準じてパートナーシップを結ぶというような状況は悔しいし、その価値観はこれまでの資本経済のなかで形骸化してしまった過去の成功武勇伝に支えられている場合が多いと思うのです。それでは“今、ここ”に立ちはだかる課題を乗り越えることはできないと思うわけです。

しかしながら、表層に携わる人間と深層を操作している人々が、何度も議論を交わして少しずつ信頼関係を築いていくということも、基本的には時間的に物理的に無理な幻想です。(例外的にそういうことを実現できている人達もいる。例えばここで紹介した人達など。しかしながら彼らが都市の骨格や肉付きを操作することは今の社会ではできないだろう。彼らが扱うのはビタミン剤を飲んで体調を整えたらちょっと顔色が良くなるとかそういう範囲の操作。しかしとても重要な存在と活動ではある。)これは藤村さんなんかが日頃から切に訴えている問題点ですね。

そうであれば、はじめから表層を提案する側が、深層の状況を理解し信頼しているというポーズを示し、深層の倫理と価値観の内でそれらを構成する言語や文法を批判的に組み替えたような“ストーリー(うまい話)”を提示することができれば、つまり同じような価値観で議論できるような場を用意できれば、表層を扱う人間がポジティブに深層に介入していくことができるのかな、と考えたわけです。

ここまでが、当時『ストーリーを肥大化することで深層を騙くらかしたい笑』という命題に至ったプロセスです。
このようにもういちど整理し直してみると、僕自身の目指すものとしては、勝矢さんのアプローチとは基本的にほぼ一致していると思いました。
なぜ言い方を変えたのかというと、僕は表層を扱う人間が「表層でもできること」だけではなく「表層ではできないこと」にも関わっていけたらいいなあ、という心理というか意気込みの現れだったのだと思います。
ただ、そうなってくると、『ストーリーを肥大化させる』という言い回しは適切ではない気がしました。それはYOSHIDAさんが指摘されているように、確かにディズニーランドであったり忍者村的な環境の出現を予感させると思います。つまり『ストーリーを肥大化させる=ストーリーを一人歩きさせる』ことは表層と深層との距離をむしろ押し広げるものであるように考えられるからです。表層がストーリーとだけしか、あるいは深層がストーリーとだけしか関係を結ばないようになってしまうと、それはすごく怖い現象だと思いました。的確な指摘をありがとうございます。

ではどういう表現をするべきだったのか。
ちょっと今の時点では勝矢さんのように明快な言葉が見つからないのですが、イメージとしてはおそらく、「表層を肥大化させる時に、つまり表層から深層に向かって圧力がかけられる時に、ちょうど良いくらいの割合で表層と深層の力関係がバランスするようになる、表層と深層との境界面(インターフェイス)をデザインしたい。つまりその境界面の浸透圧を調整したい。そしてその浸透圧を調整するものがストーリーである。ストーリーは表層と深層との中間領域として機能する。」ということかな、と今は考えています。もう少し洗練させる必要がありますが…。



それといわゆる郊外化がトータルな視点でみると幸せ(のようなもの)を享受しているという認識は、僕の経験的にはなかなか理解しがたい。
その証拠に僕がかつていた世界(高校までの地方郊外での生活)はテレビやサービス過多の受動的な世界にどっぷりと浸かってしまった本来のコミュニケーションの楽しみや創作の楽しみのない虚構の世界であったから。



なるほど。確かにそのような世界を生み出す郊外化はあまり歓迎したくありません。それらは郊外という環境だけに顕著な世界ではないのかもしれませんが、とても大きな不幸せだと僕も思います。

それと、僕が「郊外化」という単語を用いてしまったことはいささか不適切だったかもしれません。僕があそこで言いたかったのは「見えざる力の運動」のことだったのです。「見えざる力の運動」がもたらす影響によってたくさんの人間が住むところを得、便利さを得、経済的な負担が減り、時間的な余裕ができ、というような点に幸せを見出していたのです。(それこそが郊外化であり「虚構の世界」を生み出す運動であると言われると、そうかもしれないとも思ってしまいますが。)
しかしながら、もともと萎びた農村などからすると隣接する市街地の郊外化(主にローサイド化)は、相当に生活を改善してくれる出来事であったという一方で、YOSHIDAさんのご実家のようにそれによって不利益を被る人々がいるという一面もあるというような状況は、あまり健康的な関係性ではないと思います。僕が不用意に書いてしまった「郊外化が人を幸せにする」などといった内容には、もしかするとお気を悪くされたかもしれません。
「見えざる力の運動」に着目し、それらをコントロールすることで、取り巻く環境に暮らす人々の幸せな関係性を維持しつつ、好ましい環境を作っていくことができたとしたら、理想的だと思います。



以上がレビューのレビューを受けて僕が考えたことです。
なんか、自分の意見の釈明のような体裁になってしまい、あまりいい文章にはなりませんでした。ダラダラと長いし。
やはりブログだけで議論を展開するというのは難しいものだと思った。
でもとりあえず、何はともあれ、いい勉強になりました、ありがとうございます。と、勝手に感謝しておきます。




最後に、全然話が変わるのですが、勝矢さんが社会の価値観が個別化・多様化してきたというように述べていたが、その一方で最近のニュースなどを見ていると建築が世の中の「安全」至上主義の先導役として期待されている感がある。地震などの天災から守ってくれる。犯罪から守ってくれる。不景気から財布を守ってくれる。など、建築は一様に、これらの価値を求められている。(なにも今になって、急に求められ始めたことではないのですが、とかく最近ではそれらは全て建築が責任を負うべき対象となっている。)
つまり、個別化・多様化する価値と普遍化・全体化する価値が併存しているような状況になってきたように思う。
このような状況の中で僕らがどういうアプローチで深層に挑んでいくか、まだまだ考えていかねばならない問題です。


author:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-05-11 03:50 | 晴れ
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