松本剛志の考えること
by matsumo5402
フィクション
「排除の原理とは、原始的とは言わないまでも、非常に単純なものである。それは、それに反対する価値を否定する原理である。これに対して、犠牲の原理は、価値の多様性の存在を認め、そして暗示する。優先権を要求する別の価値にたとえ屈したとしても、犠牲にされたものは、なおも価値であることが認められている。」
--E.H.ゴンブリッチ



例えば、モノを制作あるいは施主等にプレゼンする方法として、「実は“こういうこと”も“ああいうこと”も考えてみたけれども、検討の結果コレになるわけですよ」と、“脱落した”モノと“生き残った”モノとの差異を比較して“生き残った”モノの優位性と客観性を主張する方法があると思う。この場合の“脱落”は“排除”だろうか。それとも“犠牲”だろうか。僕が考えるに、制作者が“脱落した”モノから、どれだけパラレルな価値を見出していようとも、このプロセスは“排除”的であることが多いのではないだろうか。

この方法の中で“排除”的になるであろうものは、例えば、制作過程の“こういうもの”や“ああいうもの”を、条件(施主の希望や法律など)に対して「ここが不具合、あそこが不具合」といったように、(場合によっては、制作者にしてみれば「もし違う条件であれば具合がいいのに」というカタチで価値を見出しながら)脱落させるプロセスであるのではないか。厳密にいえば制作者にとってはある程度“犠牲”的な意味を持つかもしれないが、完成されたモノに対しては特に多様性を発生させない、つまり“排除”でしかないように思う。そして“排除”の完了と共に制作が終了することが多いと思うのです、一般的には。

ではモノに対しての“犠牲”はどのようにしたら生み出すことができるか。おそらく、(一つの有効な手段としては、)<どれも条件に対して不具合ないが相互に比較すると差異のあるいくつかのモノ>を提示することで可能になるのではないだろうか。つまり、“排除”のプロセスを無事経てきた代物をいくつも提示し、選別する。これは“犠牲”的であると言えると思う。

では、“排除”のプロセスの“生き残り”にどのようにしてバリエーションを持たせるか。同時にそれらをどのように選別するか。
僕が考えるのは、仮説(フィクション)を持ち込むことの可能性である。条件(ノンフィクション)によって規定されるものはそれ自体もノンフィクションであり、その状況に対しては普遍を示す(はず)。そこに仮説を持ち込むことによってノンフィクションに基づいたフィクションが生じる。この“フィクションとしてのモノ”は、仮説のバリエーションだけの多様なバリエーションを持つ。価値を比較することができないモノとして、いくつものフィクションを並置するということが重要である。フィクション同士の価値を比較する基準はノンフィクションな世界には存在しないから、いくつもの“フィクションとしてのモノ”を選別する原理自体もフィクションとならざるを得ない。そしてそのフィクションな選別原理にも、多様なバリエーションを持たせることができるだろう。
このような理不尽で迷宮探検的なプロセスこそが、完成したモノ自体に対しても多様な価値を生じさせることにつながるような気がしている。そしてその価値こそが作家性等と言われる部分であるように思うのです。作家性とは作品の雰囲気等ではなくプロセスから生じるものであると考えています。

だから僕が思うのは、例えばコンセプトであったりストーリー、問題設定といった、ものづくり(建築?)用語の部分を極力フィクションとして認識しながら取り扱うようにしたいということ。他者(共同制作者等ではなく施主や法律など)に迎合しなければならない部分を除いては極力フィクションであるというような認識を持ちながら、つまりフィクションの積み重ねとして設計を行うことで、フィクションが絡まり合ったノンフィクションに近い状態というようなものを生み出すということに可能性があるのではないかということです。

建築家の設計というものは多かれ少なかれそういうプロセスなのかもしれないのですが、それが極端な例としては青木淳さんの方法なんかはそうなのではないかという気がしています。あと村上春樹さんとか。建築家ではないけども。


auther:松本剛志
by matsumo5402 | 2009-02-26 03:39 | 雲り
<< solar phone con... 三角 >>