松本剛志の考えること
by matsumo5402
デフォルト
今月は、塩塚アトリエに行ったり、超バタバタで研究室コンペをやったり、東京に行ったり、卒計巡回展の準備をしたり、学祭だったり(お酒飲んでただけだけど)とかで、残すところあと1週間になってるよ。

すっかり季節は冬です。

そんなこんなで、今月を振り返ると結構面白かった。それぞれのレポートはおいおい書こう(って言いながらいつも書かないけど笑)


唐突ですが、最近よく思うのは、いろいろなことに関する初期設定の重要性と難しさと可能性です。
僕の言う初期設定というのは、伝統とかそういう言葉に近い概念だと思うんだけど、外部の人間から見たらわけがわからないんだけど、ある共同体であったり団体、あるいは個人の中では“なぜか”共有されている、「これは絶対はずせないだろう」というような前提のことです。
“なぜか”という部分が結構大切で、例えば、各地で行われるような祭りなんかは、冷静に考えたら、経済的にもエネルギー的にも相当に無駄な行為なわけです。これは誰しもが一度は考えることではないでしょうか。けど、祭りは“なぜか”現在でもきちんと成立しているわけです。こういうことが、初期設定の存在を示唆していると思います。「祭りが観光資源となり経済的な効果を生む」だとか「祭りが共同体の結束を強める」だとか、そういうフレーズは事実ではあるけれども、単なる結果であって、祭りの本質的なモチベーションにはなり得ないと思うのです。
僕の予想だけど、初期設定というのは、ほとんどが傍から見たら本当にくだらなくてどうでもいいようなモチベーションが本当にたくさんグチャグチャに集積して一つのカタチを獲得している代物だと思うのです。明確な目標のないスタート。だから初期設定の意味を問うのは実際のところ愚だと思うのです。

けど現代人は全てのことに意味や理由を求めずにはいられない。様々な場面で、初期設定の意味が問われてしまう。僕は意味を追求された初期設定は、形骸化し硬直した、ただの強迫観念になってしまうと思うのです。
ちなみに僕は「伝統」という言葉があまり好きではないのですが、それは「伝統」というと、なにか凝り固まった、ある共同体の中の強迫観念に思えて仕方ないからです。これは僕個人の印象に過ぎないのですが、僕は「伝統」という言葉とは区別して使える便利な言葉として「初期設定」を使っていけたらいいなと思ったわけです。

初期設定はもっとフレキシブルであるべきだと思うのです。なんとなく条件が付加されたり削除されたり。長いスパンで見るとカタチは大幅に変化してしまうかもしれないが、節目節目では常に連続しているという感覚。
こういう行為の連続こそが文化だと思うわけです。
ということをウチの大学の学祭を見てて思いました。(ウチの大学の学祭は外部の人間から見たらたぶん異常なのです笑)。
形骸化することなく文化を紡いでいって欲しいな。いろんな事情でどんどん難しくなってると思うけど。


そういう意味では、昨今問題視されているような、明確なマニフェストのない、なんとなく敷地の状況に合わせて設計するような方法の建築家(伝統的な形式を踏襲するだけの建築家を除いて)なんかは、実は誠実な文化の担い手であって、好感を持てる存在だなと思ったりもしています。

ただ、これからは初期設定を共有する共同体が土地に限定されなくなってくるというところが、非常に難しいところだと思うのです。ネットなんかで特に顕著だけど、面と向かって会わなくても不特定多数の人間がある共通認識を持ち得る。これは本当に難しい状況です。初期設定がミックスされ、細分化される。多様化した初期設定に対して是非を問えなくなっている。「僕はこうだと思う」「私はああだと思う」に対して、「世の中いろんな考え方がありますよね」で終わってしまう。

こういう状況の中で、建築をどう考えていけばいいのか、ひいては世の中とどうか関わっていけばいいのか、難しいところだけど、可能性は存分にあると思っています。
by matsumo5402 | 2008-11-24 03:58 | 雲り
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